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『日本の福祉を切り開いた女性 浅賀ふさー半田・小栗富次郎家の娘』の講演が行われました
7月13日(土)日本福祉大学半田キャンパスで、小松理佐子副学長・社会福祉学部教授による講演「日本の福祉を切り開いた女性 浅賀ふさ‐半田・小栗富次郎家の娘-」が行われました。
この講座は、半田市と本学の共催講座『知多を駆け抜けた人々Ⅴ 』の今年度第2回目として、企画されました。タイトルのとおり、知多半島の歴史と文化、知多半島ゆかりの人々を取り上げるこのシリーズですが、浅賀先生については、その功績や地元半田市出身ということは一般の方にほとんど知られていないことから、是非地元の皆様にご紹介できたらと昨年のラジオドラマ放送を機に、今回実現に至りました。
小松先生のお話は、1894年に当時の半田町に生まれた浅賀先生の子ども時代から始まり、日本女子大学での学びが浅賀先生に与えた影響、そして、1918年アメリカに渡って、苦学しながら医療社会事業(MSW)の道へ進むようになった背景や、当時のアメリカの医療社会事業の様子、浅賀先生に影響を与えたキャボット医師(アメリカの医療社会事業の創設者)のことなど、先生の足跡にそって進みました。
そして、帰国後に日本初の医療ソーシャルワーカーとして働くようになった経緯や、当時の社会情勢や病院の状況などとあわせて、浅賀先生がMSWとして取り組まれたことが、残された言葉も交じえ紹介されました。
戦後1947年(昭和22年)からは、厚生省児童局で6年間嘱託として児童福祉法の制定をはじめとして、今に続く児童福祉の基礎を作られた浅賀先生の功績を、過去の資料も紹介されながら説明されました。
小松先生は『我が国初の医療ソーシャルワーカーとしての浅賀先生のご功績は言うまでもありませんが、厚生省での働きも日本の福祉に大きな貢献をされたといってもいいのではないかと考えています。』と強調されました。
その後浅賀先生は、1953年本学に赴任されると同時に、日本医療社会事業協会の初代会長にも就任。本学赴任後も朝日訴訟や名古屋の老人医療無料化運動に取り組まれたことなどを、時代を追って紹介されました。
講演の最後に、1974年新聞記事のインタビューで答えらえた言葉を、印象的な言葉として紹介されました。「浅賀先生は『長生きしてよかったわ。自分の意見をハッキリ言える時代になったのですから』と言われています。生い立ちやアメリカでの経験から婦人問題にも取り組まれた浅賀先生は、男女や貧富の格差を超えて、“誰もが尊重される社会”を望んでいたのだと思います。」と締めくくられました。
小松先生の講演に続いて、藤本哲史・本学学園事業顧問より、この講演のサブタイトルにある「小栗富次郎家」について説明がありました。
浅賀先生の祖父にあたる初代・小栗富次郎が、江戸末期に蝦夷地との交易で財をなし、現在の清酒『國盛』の始まりにあたる酒造業を始め、その後金融業にも事業を拡大し、交易業、醸造業、金融業の三業で一代にして資産家となったことを紹介。
その長男の2代目・小栗富次郎が家業をさらに発展させ、愛知県下屈指の資産家に成長。浅賀先生は2代目富次郎の次女として誕生。浅賀先生が誕生する3年前の1890年には、富次郎邸(現在の中埜酒造(株)國盛 酒の文化館)に大本営が置かれ、明治天皇の御座所(宿舎)となった歴史事実も交えて話が進みました。
浅賀先生が13歳で日本女子大学附属女学校に入学した1906年、小栗家の納税額は愛知県下で3番目にあたり、富次郎は貴族院議員にも選出されたこともデータに基づき触れられました。しかし、その後日露戦争後の株価暴落から家業が傾き始め、破産に至ります。「東京で学ばれたのは、富次郎家の恵まれた環境によるものですが、その後浅賀先生がアメリカで苦学されたというのは、実家からの援助が途絶えたことによるものでしょう。」とお話されました。
参加された受講者からは、「まるで朝ドラになるような人生ですね。女性活躍の観点からも、一人でも多くの市民の方に、半田市出身でこんなすごい方がいらっしゃるんだということを、知っていただきたいですね。」と感想をいただきました。