学園創立者 鈴木修学
※「日本福祉大学の二十五年」(昭和53年6月6日発行)より抜粋。肩書、表現は当時のもの。
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日本福祉大学は、その生涯を社会事業にささげた宗教家 鈴木修学によって開設された。
それは、社会の革新と進歩のために、人間愛と科学的精神に満ちた福祉に働く人びとを育てようという、長年の社会事業活動から生まれた修学の切なる願いからであった。
今日の福祉大学にいたるあゆみは、修学が宗教的信念と社会事業への情熱を胸中に燃やしはじめた青春時代からすでにはじまっていた。 -
創立者 鈴木修学先生
誕生、青春時代
修学は、明治35年、尾張平野の片田舎であった愛知県丹羽郡布袋町(現 江南市寄木)に、お菓子の卸売を兼ねる農家の長男として生まれ、修一郎と名づけられた。
幼いころより、信仰心のあつい父と母から、毎夜のように法華経の訓読や仏の教えの話を聞きながら成長した。6人兄弟の長男のため、布袋高等小学校を卒業するとすぐ家業を継がねばならなかったので、早稲田大学の講義録などを取寄せ独学で勉学にはげみながら青春時代をむかえた。
仏教感化救済会との出会い
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そしてそのころから、敬虔な環境に育った修一郎は、矛盾に満ちた社会や人間の存在などに深く悩むようになり、なに不自由のない自分自身にすら懐疑的になっていった。この青春の煩悶からの救いを求めて、名古屋市内にあった法華系の新宗教修養団 仏教感化救済会の門をたたいたのだった。修一郎は、そこで、当時「末法救済の使命を帯びてこの世に出世した」としたわれていた会長 杉山辰子に出会い、法華経の功徳を説く杉山の話に深い感銘と心のやすらぎをおぼえたのであった。修学23歳の春であった。
その後、修一郎は求道にはげんだ。27歳の時、ついに親の反対を押し切り、家業を捨てて救済会の布教と社会事業に専心しようと決意した。正式に入会した修一郎は、杉山の養女みつと結婚、宗教家としての第一歩をふみだした。それは、極度の経営難のため助成を求めてきていた福岡市の松原ハンセン病療養所にはじまった。 -
若い頃の鈴木修学
仏教感化救済会での活動-ハンセン病療養所など-
主任として妻みつとともに福岡へ赴任した修一郎は、予想をはるかに上回る窮状にがく然とした。荒廃した施設の修理はできたものの、極端に貧しい患者たちの治療費を、救済会からの送金だけでまかなうことは到底無理であった。生来の明るさとゆるぎない信仰心で、社会から忌みきらわれ、療養所を隔離施設として一生とじこめられてしまう運命にあった患者たちに、生への希望をともさせはしたが、青年修一郎の献身的な努力でも資金不足には勝てなかった。
だが、失意のうちに名古屋に帰った修一郎には、すでにつぎの仕事が待っていた。県内の知多郡阿久比村(現 阿久比町)に1町5反歩余の田畑と50町歩余の山林をもとに農場をひらき、そこで社会から見離された不良少年たちを感化する仕事であった。修一郎は、青年たちと寝食をともにしながら、労働の喜びと生きる道を説き、かれらの心をひらいていった。
ようやく事業が軌道にのりはじめた矢先、恩師 杉山辰子の死に接した。昭和7年のことであった。しかし亡き師から与えられた2つの実践は、若き修一郎に、社会事業への情熱だけでなく、経営のあり方などを体得させ、人びとの救済に生涯をささげようと決意させたのだった。
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生の松原療病院
仏教感化救済会の事業継承と太平洋戦争
杉山辰子の死後、救済会は教化部門の仏教樹徳修養団と社会事業部門の大乗報恩会にわかれることになり、修一郎は、財団法人となった報恩会の常務理事として師の遺志をつぎ、法華経の流布とともに、社会事業に全力をそそぐことになった。修一郎33歳の時であった。
修一郎は、さっそく養護施設駒方寮の建設をはじめ、さらには少年の感化、孤児の収容など事業への情熱を燃やしていった。世情は、中国での侵略が泥沼化し、長びく不況で極度の貧困におとしいれられた農民や失業者が全国にあふれていた。このため、つのる不安から信徒はふえ、社会事業の使命もまた大きくなる一方であったので、修一郎の仕事はますますひろがっていった。
しかし、わが国は、ついに無謀な戦争(太平洋戦争)に突入した。挙国一致の体制で国民を戦争へ総動員しようとした国家は、既成の宗教以外でひたすら自己の信仰に根ざして人びとを救おうとする心ある宗教者たちさえ危険思想視して、きびしい弾圧を加えてきた。昭和18年の春、大乗修養団も治安維持法違反の疑いで特高の捜査を受け、修一郎は連行されていった。58日間の拘留後、修養団の布教活動は禁止され、社会事業部門だけが昭徳会と名をかえて続けられることになった。
敗戦、大学誕生前史-宗教法人法音寺山首、社会福祉法人昭徳会理事長に就任-
敗戦。ようやく平和がよみがえったとはいえ、戦争の傷痕は大きかった。街の焼跡には戦災孤児や戦傷者があふれ、人びとは飢えに苦しんだ。修一郎の仕事は、いっそう多忙になっていった。
だが、弾圧いらい布教活動を禁止されていた修養団は、分派が生まれたりして動揺していたので事業へ全力をふり向むけることができなかった。そのため、一日も早い再建が望まれた。修一郎は、この苦い経験から、日蓮宗に帰属し、みずからも出家、得度して再出発することを決意した。こうして修一郎は修学と名をあらため、昭和22年、修養団を解消し日蓮宗昭徳教会を設立し、修学が会長となって布教が再開された。修学はさらに翌年同宗寺院住職の資格を得、昭和25年法音寺と寺号を公称することになった。
この間も、修学の事業への熱意はかわらなかった。名古屋養育園、知的障害児施設八事少年寮などを引継いだ。そこで、とくに戦災で孤児になり、浮浪生活ですさみきった子らと接して暗然となった。この体験や、障害を持つ子らを思うにつけ、未来をになう子こどもたちを育てていくために、どうしても、人類愛に根ざしながら社会福祉に働く青年たちの育成が急務であることを痛感するようになっていった。それは、国民への福祉がもはや国の責務となったにもかかわらず、極端に人材が足りなかった自治体や社会事業者たちからの要望でもあったのだった。
そのころ、全国社会福祉協議会(全社協)をはじめ愛知県、名古屋市の協議会の理事やその他社会福祉関係の要職をつとめるようになっていた修学は、この事業を自分に課せられた使命であると考えた。そこで修学は、信徒たちに福祉に働く青年を育成しようと呼びかけ、全社協、厚生省、文部省、愛知県、名古屋市などや理解ある教育者たちへ協力を求め、大学建設に奔走することになった。
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建設中の中部社会事業短期大学
駒方寮にて
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中部日本新聞(現 中日新聞)
(昭和27年11月16日)
中部社会事業短期大学誕生、そして4年制大学へ
この努力の結果、昭和28年、法音寺学園中部社会事業短期大学が昭和区杁中の地に産声をあげ、修学は初代学長に就任した。そしてさらに、修学はひろがる国民の福祉への期待にこたえるべく、昭和33年、短大を4年制の日本福祉大学へ昇格させ、翌年には付属立花高校を新設させた。
設立はしたものの教学充実の課題は山積していた。修学は連日疲れをいとわず布教に教育に奮闘を続けた。しかし、すでに3度にわたり脳血栓に倒れていた修学は、昭和37年高校事務室で倒れ、60歳の生涯をとじたのであった。
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創立の頃のキャンパス
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中部社会事業短期大学 第1回卒業式(昭和30年3月)
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大学名を掛け替える鈴木修学学長
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日本福祉大学校章
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昭和32年頃のキャンパス
建学の精神
「中部社会事業短期大学は、その根本精神として、高く清き宗教的信念に根をおろした 教養が積まれる場所でありたいと願うのであります。
社会事業の経営について深い 問題を研究すべきはもちろんでありますが、社会事業の専門的知識人を作ることよりも、永遠向上の世界観と、大慈大愛に生きる人生観を把握した健全な人格を育て、広い世界的視野をもちつつ、社会事業を通じて、わが人類のために自己を捧げることを惜しまぬ志の人を、現実の社会に送り出したいのであります。
今や新しい日本は、新しい文化的基盤を要求しております。それは、真・善・美・聖の精神文化、特に従来不振の状態にある聖―即ち信仰を他にして、奈辺にも見出し難いのであります。
この悩める時代の苦難に身をもって当たり、大慈悲心・大友愛心を身に負うて、社会の革新と進歩のために挺身する志の人を、この大学を中心として輩出させたいので あります。それは単なる学究ではなく、また、自己保身栄達のみに汲々たる気風ではなく、人類愛の精神に燃えて立ち上がる学風が、本大学に満ち溢れたいものであります。
釈尊のお言葉、
『我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す』
この一偈を、精神的根源としたいのであります。
これぞ、本大学学徒等の、魂の奥底に鳴り響かすべき、真理追求の基調でなければならないのであります。」
昭和28年4月1日
学園創立者 鈴木修学
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※御開山上人遺稿集(日蓮宗法音寺 平成11年6月7日発行)より一部抜粋
我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す
日本福祉大学、学長の建学の精神の言葉の中に「我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す」とあります。 これは法華経・方便品第二にあります。 私の著書「妙法蓮華経略義」の中では一一六頁、 九〇に次の如く出ています。
「舎利弗、当に知るべし。割れ本誓願を立てて一切衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき。 我が昔の所の如き、今者已に満足しぬ」
“舎利弗よ、自分は仏陀伽耶において修行し、人生の深い意味を覚った。 そして世間に出て教えを説いたが、その教えを説く初めから、是非自分が一生涯必ず戻し遂げたいと誓願を立てた。その誓願は、一切衆生を教え導いて自分少しも変わらない仏にしてゆきたい、という願いである。”(略)
「世の中にはいろいろな人がいるけれど、すべての人を等しく『自分と同じ仏にしてやろう』。それが自分の理想である」とおっしゃるのであります。
これは実に驚くべきことであり、実に広大無辺な大慈悲であると感謝するものであります。(略)
この大慈悲を考えます時、第一に自分を軽んじてはならぬということ。そして第二には、怒ったり、愚痴を言ってばかりのどんな恩知らず者でも、仏になれる者だ。自分がもっと骨折ってやらねばならぬ。自分の努力にまだ欠けたところがある。もう一奮発しよう、 という心持ちが起こってくるのであります。母親が、自分の子どもが重病の時「我が命に代えても子どもの病を治したい」と、神さまや仏さまに祈る心と同じであって、これが大慈悲の心であります。(略)
次の九一番に、「一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」とありますことも、この続きのお言葉であります。
“一切の人々を教化して、自分と同じ心、即ち、自分が仏と同じような心になるとともに、他の人々をも皆、仏と同じような大慈悲の心持ちとなるように導いて、世の中の人々が幸福に暮らし、極く楽しい生活をして、いつも大きな喜びを感ずる者になるように。 そして自分の骨折りにより、一切の人に喜びを与え、一切の人に満足を与えるように努力する道、即ち仏道に入るらしめよう”というのであります。本当に味わうべき偈であると思います。
参考までに「建学の精神」の全文を掲載しておきます。 これは昭和二十八年正月、私が 身延山の日蓮宗大荒行堂で修行中に書いたものであります。
創立10周年を機に「如我等無異」の
建学の精神をふまえた教育標語を制定しました。
中部社会事業短期大学の創立
※「日本福祉大学50年誌」(2003年10月発行)より抜粋。
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創立の頃のキャンパス
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はじまりは、学生数83名の小さな短期大学 日本福祉大学の前身、中部社会事業短期大学は、1953(昭和28)年4月、名古屋市昭和区滝川町の地に誕生した。学生数83名、専任教員6名、校地面積4234坪(1万4000㎡)、運動場1万1361坪(3万7560㎡)、専用校舎面積616坪(2040㎡)という小さな規模の短大であった。
1950年代の初頭、社会福祉事業従事者を養成するための専門教育機関としては、東に日本社会事業短期大学、西に大阪府立社会事業短期大学の2校があるのみであった。中部地方においては、名古屋大学に社会事業学部を設置する動きが占領期にあったとされるが、実現には至らないまま立ち消えとなっており、社会事業関係者の間では、従事者養成教育機関の設置が切望されていた。
学園創立者鈴木修学は、昭和初期から「救らい」活動などの社会事業に挺身した宗教家であったが、戦後、法音寺山首として宗教活動に携わる傍ら、財団法人昭徳会(社会福祉事業法の施行により、1952年より社会福祉法人昭徳会)理事長として児童や障害者の施設の運営にあたっていた。
中部社会事業短期大学の創立は、人間愛と科学的精神に満ちた社会福祉事業従事者を自らの手で育てたいという鈴木修学の熱い思いが全国の信者の方々に支えられて実ったものであった。それはまた、地元関係者、行政機関をはじめ、多くの心ある人びとの要請と支援に応える道でもあった。
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創立者 鈴木修学先生
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人類愛の精神に燃えて立ち上がる学風が、
本大学に満ち溢れたいものであります。 鈴木修学は、設立の認可を受けて起草した「建学の精神」の中で、「人類愛の精神に燃えて立ち上がる学風が、本大学に満ち溢れたいものであります」と述べた。この精神は、今日に至る学園の歴史の中で受け継がれ、人間福祉複合系大学づくりを目指して歩み続ける学園の導きの灯となっている。
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建設中の中部社会事業短期大学
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中部社会事業短期大学の教育と研究 中部社会事業短期大学の発足にあたって、多くの人々が鈴木修学を支え、教学を軌道に乗せる上で大きな役割を果たした。
名古屋大学医学部精神科村松常雄教授は、名古屋大学における本務の傍ら、中部社会事業短期大学の教学の基本構想策定、教育課程、教員計画などについて具体的に助言しただけでなく、教学権の自立、教育研究の保障などにかかわる「村松五原則」を提示した。
また、村松教授は、人間関係研究所を創立して研究所長(非常勤)を務め、研究面でも指導的な役割を果たした。
清新な学風に惹かれて全国から集まった創立期の学生は、高校を卒業したばかりの現役生から、経験豊富な社会人まで、年齢、経歴ともに多様であった。多くの学生がキャンパス内外の学生寮で生活し、狭く、貧弱な木造校舎に驚きながらも、新しい大学の創造に意欲を燃やす教員とともに社会福祉を学んだ。教室の中の講義だけではなく、社会調査を含む実習教育も重視され、教員と学生の結びつきは密接であった。教職員住宅に住む教員を訪ねて、昼夜を分かたぬ議論に時を忘れる学生も少なくなかった。
東西の社会事業短期大学との交歓会も大学をあげての重要な行事の一つであった。
短期大学が発足した翌年の1954(昭和29)年には、働きながら学ぶ学生に門戸を開くため第2部(夜間部)を開設した。1955年には、現場に出たのちも勉学を続けたいという希望に応えて短期大学部専攻科(1年課程)を設置し、また、現場職員の現任研修のための場として中部社会事業学校を開設した。中部社会事業学校は、1957年までの3年間に20名の修了生を送り出した。
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中部社会事業短期大学
第1回卒業式(昭和30年3月) -
創立期の教学と「村松五原則」 中部社会事業短期大学の創立は地元の社会事業、行政関係者から大きな期待をもって迎えられ、厚生省、全国社会福祉協議会をはじめとする中央官庁、社会福祉関係諸団体、関係大学からも温かい支援が寄せられた。こうした期待に応えて、中部社会事業短期大学は、第2部(夜間部)の開設、保母課程の設置、専攻科の設置、中部社会事業学校の併設などを進め、社会事業従事者の養成とともに多様な形態の研修事業に取り組んだ。
教学の基本構想の策定、教育課程、教員計画などについては、村松常雄名古屋大学医学部教授が相談役として迎えられた。
村松教授は、教学権の自立、教育研究の保障などにかかわって次のような5つの原則を提示された。
⑴教員の人事については教授会が決定権を持つこと。
⑵学問と思想の自由のたてまえから大学教育の宗教からの分離。
⑶教員の給与は将来とも教育公務員給与を下まわることなくむしろそれ以上に努力すること。
⑷個人研究室、研究費、附属人間関係研究所の設置等教員の研究の便宜をはかること。
⑸遠隔地から赴任される教員には住宅を保障すること。
創立期の教学は、この「村松五原則」に則って整備された。中部社会事業短期大学の創立から今日に至る学園の教学・研究・管理運営の礎は、この「村松五原則」のうえに築かれたといえよう。
人間関係研究所の開設
中部社会事業短期大学の開設とともに附属人間関係研究所が設置された。
「設置要綱」には、設立の趣旨が次のように述べられている。
「人間形成並びに社会構成の過程に於て生起する人間関係の諸問題及び夫等人間関係調整に必要な原理と方法を、自然科学、社会科学等の関係諸領域より綜合的に研究し、社会事業の理論並びに実際の学問的基礎を確立することを目的とする」
臨床研究の場として相談部が付設され、主に児童問題についての相談を行った。専任教員全員が同研究所の研究部に所属し、研究部には、社会事業・社会問題・精神衛生・公衆衛生・心理学・教育学・社会学・文化人類学の研究室が置かれ、現場と交流しつつ研究を進める体制を取った。
創立のころ日本福祉大学名誉教授
浅賀 ふさ(故人)
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浅賀 ふさ教授を囲んで
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鈴木修学初代学長先生から御誘いをうけた時私は厚生省児童局に働いていました。占領中に制定された児童福祉法をつくる仕事が主でした。その中で私達が主張し、一応とりいれられた2つの点は消極的な救済だけでなく、すべての児童の人権保障ということと、児童福祉司という日本には新しい職種に専門資格者を任用することでした。然しその頃は社会福祉の専門教育機関は東京に一校あるだけ、やがて大阪に短大ができましたが、社会福祉専門職員の資格条件は未だ漠然として、なきに等しく、善意のある人ならば誰でもよいと考える人々も多かった時代でしたが、教育された専門家の仕事だという理解が生まれ始めたのもその頃で、その声は追々高まって行きつつありました。
名古屋に中部社会事業短期大設立が計画されたのは、ちょうどこのような時代の要求に応えたもので、我国で3番目にできた社会事業短期大学として、25年前に誕生しました。
最初に集まった人達は80名の1クラス、先生の数も少なく、建物も不備でした。私もアメリカの大学院で社会事業の勉強をして来ましたが、日本で社会福祉専門職員をつくる教育の側に立っては自信がなく、現場で働くソーシャル・ワーカーにまず必須のケースワークの知識と技術を必死になって学生に伝えることで精一杯でした。これは人間理解と問題をもつ人間の立場から社会を見るという点で自分自身にも良い勉強になりました。このころの想い出で一番心に残るのは学生一人一人と親密な接触ができたことで、学生の方からも研究室をよく訪ねて来まして人生観を語り合ったこともありました。ことに社会福祉の大学ができたことに驚きと喜びを表明しながら、何故自分がこの大学を希望したか、身内に障害者があったり、家庭が冷たくて、何かを求める心を訴える人もあり、話しあいの中で学生の自己洞察を援助したこともありました。卒業論文は短大生にとって重荷であったらしく、論題がなかなかきまりませんでした。80名足らずの学生一人一人に会って、めいめいの関心のある処を引出す話しあいの中から、身近な問題、例えば家庭の中に存在する封建制とか家族関係の問題、虚弱児・障害児等の問題にしぼって論題を決めることができました。夕日のさす部屋で話しあったあの頃の学生達は、今は職場で中堅的存在となって居られることでしょう。
学長代理の村松教授を議長とした教授会も民主的な良い慣行の伝統の基礎をつくったことを記しておきたいと思います。
「日本福祉大学の二五年」より転載