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第17回 高校生福祉文化賞エッセイコンテスト

入賞作品

社会のなかの「どうして?」 入賞作品

最優秀賞

ともに

熊谷 桜花(宮城県気仙沼高等学校 三年)

 「〇〇ちゃんは、さくらちゃんが落ち込んでいるときに助けてくれるからね。」
 小学校の時に養護教諭の先生から言われた言葉。何気ないこの一言に私ははっとした。
 私は、保育所のころから障害を持っている友達と一緒に過ごしてきた。最初はお手伝いのつもりで差し伸べてきた手は、小学校に上がり、特別支援学級に入ったことを知って、「助けてあげなくてはならない」という使命感に自然と変わっていた。先生のあの一言で気づかされた。私はこれまで助けてもらうなんて全く考えたこともなかった。いつしか友達を障害者というフィルターを通してしか見ていなかった。私は気づかぬうちに障害者と健常者を区別してしまっていたのだ。
 小学校に入りたての頃、○○ちゃんが失敗を指摘されて放った言葉。
 「わたし、あおぞら学級だからしょうがないじゃん。」
 小さい時の自分には、まるで言い訳のようにしか聞こえなかった。でも、あの涙ながらに訴えた○○ちゃんの顔は今も鮮明に思い出せる程、心に強く残っている。
 今思えば、本当に残酷な言葉だと思う。周りと違うことを告げられた幼い子に「しょうがない」の一言で自分のコンプレックスを失敗の理由にさせてしまっている。
 私は問いたい。障害の有無で教室を分けて何が生まれるのだろうか?
 確かに、教室の隔たりが無くなって困難が生じる人もいるだろう。でも、保育所から中学校まで障害を持った友達と過ごしてきて、そこが逆にメリットだと思った。助け合う方法を互いに知ることができる。つまり、共に生きる方法を知ることに繋がると私は思う。
 そして高校生になった今、私は全ての人が同じ教室で学ぶ教育について研究している。
 すべての学校で行うことは難しいかもしれない。でも、自分だけでも心の隔たりをなくしてその人自身を見られる人になりたい。

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審査員のひとこと

 小学生の時の自分が気づかぬうちにもっていた「障害者と健常者」を区別する気持ちをきちんと認識し、正面から向き合って書いている点に好感をもちました。構成や表現もわかりやすく、読みやすいエッセイに仕上がっています。
 小学生時代の経験が「全ての人が同じ教室で学ぶ教育について研究している」という、今の行動につながっている点も評価しました。

優秀賞

瞳に映る自分を見て

土倉 早貴(石川県立鹿西高等学校 三年)

 「メシ、食ったか?」東尋坊で自殺予防のボランティアをしている男性は、岩場で座り込む若者にこう声を掛ける。一緒にご飯を食べ始めると、若者は泣きながら身の上話を始めるそうだ。その男性は、若者の自殺の多くは社会へ、家族へ、友達への抗議だと言う。もし、一人でも彼に寄り添う人がいれば死を選ぶことはないとも言っている。
 警察庁の発表では、自殺者の人数は人口減少に伴い、減ってきている。しかし、若者の自殺者の割合は増加してる。なぜ、若者は自ら死を選ぶのだろうか?
 私は、高校の人生設計セミナーという授業の中で紹介された、一冊の本にその答えを見つけた。その著者である助産師さんは、人はご飯を食べて体は成長するが、そこに愛がなければ心は成長しないと言っている。赤ちゃんの目を見つめ「いっぱい飲んで、大きくなってね。」と愛情を込めてミルクを飲ませる。ママの瞳に映る自分を見て愛されている、自分は大切な存在なんだと感じるそうだ。最近は、携帯を見ながらミルクを与え、携帯の動画に長時間、子守りをさせるママがいると聞く。海外では「ママがスマホばかり見てるから、僕はスマホになりたい」と作文を書いた小学生がいたそうだ。子どもにとって、ママは確かに唯一無二の存在、でも、ママでなくても、パパ、祖父母、兄弟、誰でもいい、あなたは大切な人、大事な存在だと伝え続けることで、自分の命を大切にできる子に育つのだと思う。
 私が疲れていると、母は私の好物を夕食に作ってくれる。クラスで辛いことがあると、友達が私の目をのぞき込み、そっと飴を差し出してくれる。私のことを気にかけ、大切にしてくれる人がいる。そう感じることで、自分も人も大切にしたいと思える。
 私は将来、子どもが愛を感じられるくらいたくさん、自分の瞳に移り変わる子どもたちの表情を映していきたいと思う。

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審査員のひとこと

 まずタイトルが素敵ですし、自殺予防ボランティアの話からさまざまなエピソードがつながる構成も、よく考えられています。作者の将来に向けた決意で締めくくり、読後感のよい作品となりました。
 授業などからの伝聞が多いものの、うまくまとめているので無理がなく、洗練されたエッセイという印象です。作者の体験や感じたことをもっと盛り込むことができれば、さらに素晴らしい作品になるでしょう。

優秀賞

知識が必要である理由

𠮷本 青真(早稲田大学高等学院 三年)

 学校の成績をとる以外の目的で知識を使う機会がなかった僕にとって、知識とは、頭の中に入れては出す、言わば「使い捨て」のものであった。しかし、そんな僕の従来の考え方を変える出来事が起こった。
 今年四月、僕は学校のプログラムで一週間ロシアに渡った。日露の文化の交換をし、将来グローバルに活躍するためのきっかけにすることが目的である。その時は突然きた。イベント中でも何でもなく、僕とロシア人男子高校生二人の合わせて三人で散歩していた時である。
 「アベさんはなぜ北方領土を日本のものだと主張するのだい。あれらは全てロシアのものだろう。」
 将来のことや恋愛観、おもしろい日本語、ロシア語について、英語を使って笑いながら会話していた中、急に真剣な眼差しで質問を突きつけられ、僕は少しの間固まってしまった。僕は最終的に、
 「僕はあまり政治問題に関心が無いんだ。でも日本とロシアの間で友好関係が悪化してほしくないな。」とお茶を濁すように返答してしまった。そして、こんなにも価値のある話をロシア人とできるチャンスがあったのに、自分の知識不足で何も語れないことに情けなさを感じた。
 日本人はよく、自分の意見を相手に伝えることや議論することが苦手だと言われるが、それは単に相手の意見や気持ちを尊重する傾向のある日本人の気質に依存するものなのだろうか。北方領土問題について語ることのできなかった僕のように、知識の欠乏が原因で自分の意見を持てない人も多いのではないだろうか。
 僕はテストで点を取る目的よりも重要な知識の使い方を知った。それ以降、ニュースの見方も変わった。二人のロシア人のうち一人は、数年後日本に来るらしい。その時には熱く北方領土について語り合いたい。

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審査員のひとこと

 ロシア人高校生とのやりとりが具体的に書かれており、状況がよくわかります。質問にお茶を濁すように返答してしまい、自分の知識不足を情けないと思ったことも素直に表現されています。
 政治的な議論をするために、「知識」だけでなく、「自分が世界の中のどんな所に住んでいるのか」という視点も加えると、いっそう深みのあるエッセイになったと思います。

審査員特別賞

なぜ都会では人がぶつからないのか。

貞苅 望乃叶(博多女子高等学校 二年)

 東京に旅行に行ったときのこと。とても不思議に思うことがありました。色までテレビやスマホの画面で見てきた通り、ものすごい人の数だったのですが、歩いている人たちは皆、誰にもぶつからないのです。こんなにも人がいて、決して広くはない道や横断歩道でも、人は人を器用に避けていきます。田舎で育ち、すれ違う人がみんな知り合いのような私にとって、「それ」はとても奇妙な光景に思えました。
 家に帰ってから母に話すと、母も同じことを思ったそうです。
 「人と人との距離が遠いからじゃないかな。」母はそう言って笑いました。私には意味が分かりませんでした。人との距離が近いがゆえに、ぶつからないことが不思議だったからです。どういうことかを聞いても、母は少し笑ってそれ以上は何も言いませんでした。
 それから何か月かが経って、実家に帰る機会がありました。私が育った田舎です。私は先日の東京での出来事を祖母に話しました。すると、以前横浜に住んでいたという叔母が、
 「私は都会に憧れて向こうに移ったけれど、人の多さや仕事に疲れて、意識的に人を意識しないようにしていたような気がする。」
と言っていました。周りに知り合いがいない中でのストレスというのは、思っている以上にきついそうです。
 叔母の話を聞いて、知らない人が多すぎる環境というのは、無意識に人を避けてしまうものなのかなと思いました。そこで、母の言葉を思い出し、母の言っていた人と人との距離というのは、物理的なものではなく精神的なもの、つまり心の距離なのかなと思いました。今まで考えたり意識したりすることはありませんでしたが、人とすれ違って「おはようございます」と言える距離というものがとてもあたたかいものに感じました。だから私はこの「おはようございます」の距離を大切にしていきたいと思います。

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審査員のひとこと

 目のつけ所や、「『おはようございます』の距離」といった表現がユニークで、興味深い作品になりました。作者なりの発見や考えを素直に書いており、母や叔母との会話も交えながら、「心の距離」について深く考えていく過程をうまくまとめています。
 ただ、「心の距離が遠いと人とぶつからない」という論理が正しいのかという意見もありました。根拠の説明が加わるとなおよいですね。