ヒトとカワウ タイトル

飛ぶカワウ小さなイラスト


知多の景観
<鵜の山>

知多の景観:<鵜の山>

(写真1)餌場からカワウが帰る
カワウが巣に帰る夕暮れ
<夕焼け小焼けで日が暮れて>ウノトリと一緒に子供も帰った。

カワウはウミウとともに、神事や民俗、伝承に登場し、あるいは全国的に広く 行なわれた鵜飼など、鵜は古来からヒトと密接にかかわった数少ない野生動物の一つである。とくに、ここ 知多では、朝夕、群れをなして行き交う、<鵜の山>のカワウの姿なくして景観を語ることはできない。

カワウは、早朝、伊勢湾や三河湾の沿岸域や河口部に出かけて採餌し、夕刻、<鵜の山>に戻ってくる。 その帰来を見て主婦は、籾や洗濯物を取り込み、子供は家路についた。上野間のあんちゃん、ウノトリはカ ラスの役割も果たし、時計にもなった(写真1)
 海面ではまた、カワウは猟師に魚群の位置を教え、餌を貰う友である。知多の景観、その背景には、肥料 を提供しヒトと共栄した<鵜の山>百数十年の歴史があった。

 発端

カワウは集団で暮らすため、糞尿により木々を枯らす厄介者として、森から逐われる宿命を有していた。野間の天神や、長池の森、おせんぎ山のマツを荒らし、追い払われたカワウは、天保初年(1830)の頃、東寸田の森に辿り着き、さらに対岸の大日山の麓のマツ林に移住した(図1、図2)、(写真2)
 移住先は下草刈りの許された御林だったのが、双方に幸いしたのであろう。カワウはなんら妨害を受けず、営巣、繁殖し、固体数を殖やした。やがて村民は糞尿に塗れた下草や落葉の肥効が高いことに気付い
た。ウ糞は燐酸や窒素に富み、根菜類や果菜類の味をよくし桑にも有効である。大日山のすぐ西一帯は、当時の特産品、大根の生産地だった。

(写真2)鵜の山 上野間
鵜の山の現況
<以前は野間天神の森あたりに生息>知多郡史 1923
(写真3)現況、東寸田より鵜の山を見る
鵜の山の現況
手前の東寸田一帯の木々は払われたが、前方、右手の鵜の山(大日 山)の麓と東寸田池(堂前池上)の岸に営巣中、1999、1月
(図1)カワウの移動
鵜の山の現況
野間天神(上野間)や長池(奥田)の森を逐われたカワウは、東寸田に辿り着き、大日山(現鵜の山)に営巣、繁殖した。天保初年の頃といわれる。またおせんぎ山(浅間社)(北方)のカワウも大日山に追われた。
(図2)上野間村絵図
鵜の山の現況
天保12年(徳川林政史研究所)美浜町誌、資料編一、1980)、絵図の描かれた頃、ヒトとカワウの共栄が始まった。カワウは東寸田(当時、寸田)から大日山の麓、楚ぎ迫間(曽木廻間)一帯のマツ林に営巣した。堂前地下は鵜の池、上は東寸田池。池の西の「新田ニテハ干し大根ヲコシラエ紀州熊野アタリヘ売ツカワセリ」(尾張徇行記)。

 共栄の途 

(写真4)上野間小学校(当時、小鈴ケ谷小学校) 美浜の鵜コロニー図 明治42年3月竣工(上野間同窓会名簿、1995)鵜肥金より新築費 8350円余支出された。その他、肥金は寺子屋の昇格、教育設備の充実などに多く使われている。

1838年頃から、村民は採糞の権利を入札し、得られた収益を蓄 積(大日山鵜肥金)した。明治維新前すでに、約400両の肥金があった(表1) 。ウ糞の「肥料タル哉毎年請負者ニテ売却シ該金ヲ以テ本村小学校資金ニアテ」(明治21年、銃猟 禁制区域拝借願)、村民は山番をおき柵を廻らし、昼夜を分かたずカワウを保護した。明治26年(1893)以 降は、鳥類保護令に従い、10年毎に禁猟区の設定を申請し拡大した。
 収益は教育費のみならず、里道の補修、濃尾地震の復旧、生活困窮者の援助などにも充てられた。表1に 天保−明治期の入札−支出、保護などの記録をまとめてみた。まさにヒトとカワウが社会的に共存し、共栄 した実態が読み取れるよう。また写真4に、肥金が建設に与った小学校を示した。

  表1 <鵜の山>年表 天保−明治期       入札、支出高の円以下は省略
天保初年 1830 野間の天神、長池、浅間山の森を逐われ、東寸田(当時、寸田)を経て大日山(現鵜の山)に移住、営巣−繁殖、コロニー域、約2ha.
10年 1839 大日山鵜肥金より四島若衆に2両支出、採糞は1838年に始まった
嘉永2年 1849 大仙寺和尚、上京旅費、25両
安政3年 1856 秋庭山代参者手当、30両
文久元年 1861 和宮の降嫁、下向の負担金のうち125両
元治元年 1864 若衆組貸し付け、200両
明治元年 1868 入札金は当初年2両から7両、15両、30両、70両と騰貴し、明治維新の頃は90両に達した
2年 1869 個人の採糞を改め、村を4組に分け、年150円支払い各組順次、採糞した(9年まで)
10年 1877 3年毎の組入札に変更(昭和20年まで)、前年末に入札、入札高 540円−1650円(明治期)
漁師の立ち入り増、銃猟禁制の申請、標札、山番
13年 1880 村民に配分 931円、米価低迷の年
17年 1884 寺に寄付 851円
19年 1886 小学校新築、493円
20年 1887 拝殿新築、20円
21年 1888 コロニー(養鳥)域3.9ha. と隣接の官林4.3ha. を銃猟禁制区域。里道改修 96円、本堂修理 243円、池普請 69円
23年 1890 救助費 108円、村民に配分 650円、22年に大風雨
25年 1892 濃尾地震復旧費 232円、24年10月に地震、警備費 68円、鳥類保護令
26年 1893 禁漁区の設定、99ha.(10年毎に禁猟区の申請、拡張)
39年 1906 禁猟区沿革調査(内務省)、基本財産、弐万余円、禁猟区 187ha.
40年 1907 小鈴ケ谷村と合併、村に譲渡、455円
41年 1908 小鈴ケ谷小学校(現上野間小学校)、新築費(計7416円)
42年 1909 小学校新築費 934円

 


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