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「ふくし」を思う

研究・教育活動、地域連携・社会貢献の取り組みを紹介します。

講演録

学園創立60周年記念事業文化講演会「可能性に光を当てて。人作りからモノ作りへの挑戦」山口絵理子氏(株式会社マザーハウス代表取締役兼チーフデザイナー)

講演録 「可能性に光を当てて。人作りからモノ作りへの挑戦」

  • 講師:
    山口絵理子氏(株式会社マザーハウス代表取締役兼チーフデザイナー)
  • 日時:
    2013年6月9日(日)11:00~12:30
  • 会場:
    名古屋国際ホテル2階

※所属や肩書は講演当時のものです。

いじめられっ子だった小学校時代

 マザーハウスは、私が24歳のときに起業した会社です。もともと私は、自分の会社を持つことにはそれほど興味はありませんでした。会社を起こしたのは、単純に夢を実現したいと思ったからです。

 実は私は、小学校のときにすごくいじめられていて、学校に行くことが難しかったのです。上履きがない、教室に椅子がない、トイレに行くと上から水が降ってくる、帰り道ではいろいろな所から石が投げつけられて、幼いながらにとてもつらく感じていました。中学校に入り、二度といじめられたくないという気持ちで始めたのが柔道でした。高校3年生の最後の大会で、埼玉県で1番、関東で2番、オリンピックの第1次選考会で7番になることができて、ヤワラちゃんなどと一緒に全日本強化合宿に行くなど小さな成功体験があって、私でも努力すれば少しでも拍手をもらえるのだと思ったのが、高校3年生のときです。

山口絵理子氏

 しかし、オリンピック一筋で練習してきたわけではなく、私自身は強くなりたい、自分自身を守りたいという思いで始めた柔道だったので、高校の引退試合が終わるとすぱっとやめてしまいました。そして、初めて勉強してみたいと思うようになり、本当にラッキーなことに慶應大学に入ることができました。4年間の学生時代で大事な財産となったのが、竹中平蔵先生との出会いでした。途上国の経済発展理論を聴いて、私が悩んだ教育の問題は日本にだけあるものではなく、発展途上国の人々も学校がなくて困っていると分かり、アジアやアフリカのことを勉強しはじめるようになったのです。

独りぼっちのバングラデシュへの旅立ち

 大学4年生のとき、ワシントンの米州開発銀行で4カ月ほどのインターンの機会を得ました。私が携わったのは、大変大きな額の援助のデータをコンピュータに入力するという単純な作業だったのですが、そのときに、これだけの額の援助が本当に届いているのかという疑問を持ち、それを自分の目で確かめたいと思ったのです。そして、せっかくだったらアジアで一番貧しい国に行ってみようと思ってYahoo!で「アジア最貧国」と検索して出てきたのが、バングラデシュでした。私は取りあえず2週間の夏休みを利用して、ワシントンからダッカに向かいました。

 そして、その2週間で、現地にもっといる必要がある、そのためには教育ビザが必要だと思い、現地の大学院に入るために、慶應大学を卒業して1カ月後にダッカに向かいました。両親や教授の大反対を押し切っての決断で、大変な勇気を振り絞って成田空港に行ったことを覚えています。NGOなどの組織に入れば少しは安心だったかもしれませんが、私は独りぼっちだったので、ベンガル語の辞書を片手に、まずは自分が住む家を見つけなければいけませんでしたし、水を出すとか、電気を通すとか、全ての作業において役所と交渉しなければいけませんでした。しかも、そのたびに賄賂を要求されるのです。

 悩んだ末、1年後には日本で普通に就職しようと決め、一旦帰国して就職活動を始め、ある会社に内定までもらいました。しかし、ダッカに戻ると、自分の決断は本当にそれでよかったのかと思えてきたのです。何のために生きるのかという枯渇感のようなものを、とても覚えました。そのことに気付かせてくれたのは、大学院に行く途中、毎日私に水を売りに来るスラム街の少年たちでした。私の何百倍も必死に生きている彼らを見ながら、私は自分が胸を張って生きられる選択をしようとしているのかと自問自答しました。そして、政治ではなく、自分たちの力で道を切り開けるビジネスというセクターに希望があるのではないかと思い始めたのです。

黄金の繊維、ジュートとの出合い

 そんなときに出合ったのが、ジュートでできたコーヒー豆の袋です。2005年のことでした。ジュートは、バングラデシュでは黄金の繊維とも呼ばれている、バングラデシュが世界に誇る天然繊維です。バングラデシュにも誇れるものがあると知り、すごくうれしくてすぐにジュートの工場に行ったのですが、そこでは13歳の女の子たちが2~3万人というレベルで働いていて、1ドルもしない麻袋を大量生産していました。彼らはその気になればもっといろいろなものが作れるのですが、先進国のバイヤーのリクエストは、中国の3分の1の価格で作る麻袋だけだったのです。私はその様子を見ながら、「途上国から先進国に通用するブランドを作る」というミッションを、スケッチブックに書き留めました。

 ですから、マザーハウスは事業計画がしっかりと固まってからできたわけではないのです。バングラデシュを生産拠点として日本向けに輸出することは非常に新しい試みでしたし、ジュートをファッションバッグの素材に使うのも初めてでした。さらに、それをイスラム教社会の中で女がやろうとすることも、宇宙人のような目で見られました。レザーだと言って出されたものが合皮だったりもして、私自身何が何だか分からない中でしたが、アルバイト代を全てはたいて何とか160個のバッグが出来上がり、会社を設立したのが2006年3月9日です。社名は、マザーテレサから取ってマザーハウスとしました。家がない子があまりにも多いので、戻れる場所になれたらいいという思いからです。

 ちなみに、言葉はどうしたかというと、大使館の皆さんが行く語学学校は学費が高かったので、路上でお茶を売っているおばちゃんに1時間10~20タカ払って、工場でもすぐに使える生きたベンガル語を習いました。私にとって言葉はツールではなく、彼らを尊重しているという印なのです。日本企業の駐在員が言葉も学ばず、どうして信頼関係が結べるのだろうという考えがベースにあって、今、弊社の日本人駐在員が2名現地に張り付いていますが、2人とも自由に話せるようになっています。

※この講演録は、2013年7月7日付中日新聞に掲載されたもので、中日新聞広告局の許諾を得て転載しています。このサイトに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。

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