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#61 障害者の社会参加

障害者の存在を
分けない、隔離しない社会へ。

社会福祉学部 社会福祉学科

藤井 渉 准教授

藤井 渉准教授は、歴史の検証を通して障害者福祉を考える研究を柱として、戦争と障害者、障害者福祉、優生思想などについて有意義な提言を行っています。 藤井先生に、障害者の社会参加に必要な環境づくり、社会のありかたなどについて話を聞きました。

社会課題

人々が抱いている障害者観を変えていく必要性。

 人々は障害者に対してどのようなイメージを抱いているでしょうか。藤井先生は、これまで社会が障害者に対して抱いてきたイメージについて、大きく4つに分類して解説しています。

 一つは「慈善的障害者観」。慈善的な見方、かわいそうだから、という目線です。二つ目は「慈恵的障害者観」。障害者に恵みを施すという考え方です。たとえば、政治家のイメージアップの手段として、障害者福祉が利用されるケースなどがあてはまります。三つ目は「社会効用的障害者観」。たとえば、サヴァン症候群(発達障害などのある人に見られる、特定の分野において突出した能力を発揮する人や、その症状のこと)に代表されるような特殊な能力をもっている人がいるとして、社会の発展に活かしていこうという考え方です。そして、最後に「社会防衛的障害者観」。障害者から社会を守るという考え方です。これは社会にある差別の問題で、障害者の社会参加を阻む上で最も深刻な障害者観といえます。

 これら4つの障害者観は程度の差はありますが、いずれも障害者に対する偏見や差別というフィルターになります。そのフィルターをなくしていく先に、障害者の社会参加の道が拓けていると考えられます。

INTERVIEW

戦争と障害者の関係性から見えてくるもの。

最初に、先生の研究内容について教えてください。

藤井

僕の研究の大きな柱は、障害というものが歴史的にどのように扱われてきたかということの検証です。そして、その中心は、戦争と障害者の関わりになります。戦時中の徴兵制では満20歳の男性が検査を受けて、体格・健康状況などに応じて甲・乙・丙・丁種に振り分けられていました。そこで、障害者は丁種といって不合格者に位置づけられました。たとえば、視覚障害や聴覚障害、心臓疾患などの内部障害、吃音、てんかん、手指の欠損・癒着、知的障害・精神障害など、かなり広い範囲の障害が一覧で示され、それに該当するかどうかで判定されていました。つまり、戦争で人がランク付けられ、障害者は兵隊として「役立たない」、「御国」にとって「役立たない」存在として扱われ、イメージされていったのです。

戦時中に培われた障害者のイメージは、その後どうなっていったのでしょうか。

藤井

戦時中の障害者観は、戦後も根強く残っていったと考えられます。たとえば、戦争で傷害を負った兵士も障害者になりますが、彼らは名誉の「傷痍軍人」とされ、徴兵制で不合格になった障害者とは明確に区別されていました。もともと障害のある人は、当時の差別用語で「不具・廃疾者(ふぐはいしつしゃ)」と言われ、「穀潰し」などとも呼ばれていたんですね。そうした戦時中の障害者に対する観念が、戦後もそのまま引き継がれているということが、非常に大きな問題だと考えています。そのことを端的に表しているのが、2016年7月26日に起きた相模原障害者殺傷事件です。相模原市の障害者の入所施設である「津久井やまゆり園」で、犯人は19人もの障害者を、役に立たないから死んだ方がいいという理由で殺害してしまった。この事件は「社会にとって役立つかどうか」といった人を選別する思考や論理が、広く社会の底流にあることを再認識させられるものでした。

戦後に引き継がれた、選別の思考。

戦後の社会福祉はどのように発展してきたのでしょうか。

藤井

戦後に、身体障害者福祉法(1949年)という法律が制定されました。この法律は、元傷痍軍人とそれ以外の障害者を区別せず、障害者一般を対象にしたところが、戦時までとは一線を画するものでした。しかし、戦後の社会福祉の制度には、戦時の仕組みがそのまま引き継がれている部分も多くあります。その一つが、身体障害者福祉法に基づいて定義されている障害等級表です。また、障害福祉サービスについて定めている障害者総合支援法でも序列化の論理があって、就労支援では能力別で受けられるサービスを区別しています。障害支援区分も戦時の目線を感じさせられる仕組みです。これは必要とする支援の度合いと受けられるサービスについて6段階に区分して判定する仕組みですが、その仕組みづくりや運用には民主的な手続きがなく、「お前は支援にたり得る存在か」という選別的な目線を感じざるを得ません。

区別や選別という考え方が、今日まで引き継がれているわけですね。

藤井

ええ。障害があったらまず分けるんですよ。分けて、障害者としてのサービスを提供していくことになるんですね。そして、その区別は一般社会から分けることも常に前提にされてきました。たとえば、一般社会から隔離されたような交通不便な場所に、知的障害者が暮らすコロニーが建設されてきた歴史的経緯もあります。また、教育の世界でも、障害のある子どもは特別支援学校で教育を受ける仕組みが整えられてきました。

フィルターを外すと、「その人」が見えてくる。

先生はコロニーで支援活動に従事していた経験をお持ちだと聞きました。

藤井

はい。知的障害のある人たちが暮らすコロニーで、入所者さんが地域へ出かけたり、帰れるようにしたりする外出支援を行っていました。本人の求めによりますが、たとえば、知的障害のある人のスーパーでの買い物に同行し、最初はレジでのお金の支払いを手助けしたりしますが、お金の勘定の仕方を伝えながら、徐々に遠くから眺めるようにすることもしました。障害があるのでお金の勘定をするのも時間がかかるのですが、回数を重ねるごとに店員さんも対応に慣れてきて、「2980円だから千円札3枚やで」というように言ってくれたり、後ろに並んでいる人も手伝ってくれるようになっていきました。その経験を通して、一人で外出ができるようになった人もいました。障害者の社会参加には、こういう周囲の理解や協力で前に進むのだと強く思いました。

当たり前のことですが、「障害者」としてじゃなく、誰々さん、という名前で呼び合えることが大事で、同じ人として認め合うということが大切なんですね。

藤井

その通りです。誰でも大なり小なり「障害者」に対するフィルターを持っていて、それがどこかで邪魔をするわけです。それを外していくと、目の前の人が障害者じゃなく、「誰々さん」になり、その人が見えてきます。たとえば僕はコロニーで、強度行動障害と言って、重度の自閉症があって、走り回ったり大きな声を出したりする方を長く支援していた経験があります。2年半は会話が全く成立しませんでした。あるとき、バスに一緒に乗っていると、山に雪が降り積もっていて、すごく景色がきれいだったんですね。その方が「雪がきれいだ」と話しかけてきてくれて、僕も「めっちゃきれいですね」と返しました。それが初めての会話で、そこから二人の関係性がガラッと変わっていきました。まさに鳥肌がたった瞬間でした。同時に気付かされたのは、「問題行動」や「重度の自閉症」といった部分にやたらと目を向け、その人と向き合えていなかった自分でした。そのような心の通いあう瞬間、人としての結びつきに気づける瞬間が、福祉の現場にはいっぱいあると思います。だから、楽しいんですね。

社会参加のハードルは下がってきている。

これからの障害者福祉について、どのように考えておられますか。

藤井

僕自身、この20年間の社会の変化に希望を持っているんです。一部を除き、障害のある人やジェンダーなどの問題を取り巻く環境は本当に良くなってきたと思います。今は、障害の有無や国籍、年齢、性別などの違いを認め合う共生社会が大事にされ、その実現に向けて社会が動き出しています。これは「社会的に包摂する」という考え方でもありますが、すべての人々を分けて切り離すのではなく、共に生きていくことができるように社会そのものをつくり変えていこうという取り組みが始まっています。

社会参加のハードルが下がってきたということですね。

藤井

そうですね。社会参加が進むことで、「こういう支援が必要な人がいたんだ」ということが人々に気づかれ、可視化されてきました。それに伴い、みんなが少しずつ居心地よく暮らせることに目が向けられるようになってきたように思います。ただ、僕は精神科病院の入院者に面会に行くという活動にも参加してきましたが、精神障害者を取り巻く環境だけは良くなっていないんですよね。精神障害者に対する偏見のフィルターが強く、何か事件が起きると「精神障害者」であることが矢面に立たされる側面があります。歴史的経緯を検証してきて思うのが、精神科病院は医療機関であるはずですが、精神障害者を隔離するという役割が根強く、また、精神障害者は医療のところに置き去りのままで、まだちゃんと福祉の対象になっていないように感じています。

今後、さらに障害者の社会参加を促していくには、どうすればいいでしょうか。

藤井

先ほどの外出支援での買い物の例でお話ししたように、まず障害のある人の存在を知り、認め、みんなで生きる術を考えたり知恵を共有していくことを積み重ねることに尽きると思います。最後に、ちょっと余談になりますが、障害者の音楽活動について紹介したいと思います。NHK5代目歌のお兄さん・かしわ哲さんが障害のある人たちと共に結成した「サルサガムテープ」というロックバンドがあります。ここで大切にされていると感じるのが、「隠さない」というコンセプトなんですね。障害のある人自らが表現者となって、みんなで音楽を楽しむという。相模原障害者殺傷事件では、いち早く犠牲となった「仲間」たちに追悼の意を示しながら、全国から「仲間」を募集し、それをメッセージとしてYouTubeに公開しました。そこに明確な強い意志を感じます。こういう活動が広がっていくことで、障害者の社会参加もさらに進んでいくと期待しています。

サルサガムテープ
「ワンダフル世界 ~サルサガムテープと全国の仲間~」

(株)ミライロのチャレンジ

バリア(障害)をバリュー(価値)に変える「バリアバリュー」を企業理念として掲げる(株)ミライロ。2019年、デジタル障害者手帳(※)「ミライロID」をリリースし、障害者が外出や生活のしやすい社会の実現を目指しています。

※障害者手帳は、障害のある人が福祉の支援サービスを受けやすくするために交付される手帳で、「身体障害者手帳」「療育手帳」「精神障害者保健福祉手帳」の3つを総称しています。

障害者手帳を
スマホで提示すれば
お出かけはもっと楽しくなる。

株式会社ミライロ

大阪府大阪市淀川区西中島3-8-15
EPO SHINOSAKA BUILDING 8F

https://www.mirairo.co.jp/

「ミライロID」の取り組みが評価され、日本スタートアップ大賞2023にて「医療・福祉スタートアップ賞(厚生労働大臣賞)」を受賞しました。
デジタル障害者手帳「ミライロID」とは。

障害のある人は、障害者手帳を見せると公共交通機関や美術館・博物館、テーマパーク、ホテルなどで割引サービスを受けることができます。しかし、利用するたびに障害者手帳をカバンや財布から出すのは手間ですし、人前で障害者手帳を出すことへの抵抗感もあります。そうした不便さや心理面の負担を軽減し、スマートフォンでパッと提示できるようにしたのが、デジタル障害者手帳「ミライロID」です。

デジタル障害者手帳「ミライロID」

(株)ミライロでは以前から障害者手帳の電子化を考えていましたが、長い間、「障害者割引利用時の本人確認においては、障害者手帳の現物を提示しなければならない」という慣習に阻まれていました。しかしユニバーサル社会の実現に向けて、その慣習が見直されたことから、いよいよアプリの開発に着手。開発段階では283種類もある障害者手帳のフォーマットを全国の自治体から収集。すべてのフォーマットをスマートフォンの画面で提示できるシステムを作り上げました。リリース当初は「ミライロID」を使える場面は少なかったのですが、2020年6月にマイナポータル(政府が運営するオンラインサービス)と連携したことも受けて、アプリに対応する企業が急増。交通機関やレジャー施設で「ミライロID」を利用できる環境が整っていきました。障害者からは「こんなサービスを待っていた」「旅行や外出がしやすくなった」という喜びの声が聞かれます。同時に、まだまだ「身近で使える施設が少ない」という声もあり、同社ではさらなる利用環境の整備を進めています。

実現したい未来は、障害者のエコシステムの構築。

同社では、障害者の移動や生活がもっと楽しくなるように、ミライロIDでできることを増やしていこうとしています。たとえば、店舗やECサイトなどで使えるクーポンやオンラインチケットの提供、商品・サービスの情報配信など。さまざまな情報連携により、障害のある人の選択肢を増やし、今までできなかったこと、諦めていたこともできるような環境を整えていきたいと考えています。

その先にめざすのは、ミライロIDを起点に、障害者と事業者(企業、教育機関、自治体)をつなぐ架け橋となり、社会インフラを構築することです。障害のある人は、ミライロIDを使うことで、より社会参画しやすくなります。より多くの障害者が社会参画するようになれば、事業者サイドもより高いレベルのユニバーサル対応を求められます。そこに対しても同社が的確なソリューションを提供することで、さらに多くの障害者の社会参画が可能になります。同社では、この好循環を「障害者のエコシステム」と表現し、その構築をめざしていこうとしています。

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  • 多様性 社会福祉
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