#25 障害児・者の性教育
「性を楽しむ権利」を前提とした
包括的性教育をめざして。
教育・心理学部 学校教育学科
伊藤修毅 教授
伊藤修毅教授の専門は、特別支援教育。特別ニーズ教育、青年期、セクシュアリティ、就労支援をキーワードに研究に取り組んでいます。伊藤先生に、障害児・者の性教育について話を聞きました。
社会課題
世界的に遅れている、日本の性教育。
1992年を「性教育元年」と呼ぶことがあります。この年から実施された学習指導要領に性に関することが取り入れられたためです。しかし、2000年代に入る頃から、性教育への「バッシング」が行われるようになり、ただでさえ遅れていた日本の性教育は、再び停滞することになりました。中でも、東京都立七生養護学校が舞台となった性教育バッシングは、非常に強烈なもので、障害のある子どもたちへの性教育は、本来、より丁寧に行うべきものですが、より一層停滞してしまうことになってしまいました。
そんな中でも、細々と「性に関する指導」を行う学校もありましたが、その授業内容は思春期の体の発達などを断片的に学ぶ程度にとどまり、系統的なカリキュラムもなく、日本の性教育は非常に遅れているといわれている状況が続いています。一方、世界では、「包括的性教育」という概念が掲げられ、2009年には、ユネスコなどの国際機関の共同文書として『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』が発行されています。この『ガイダンス』は、2018年に改訂版が出され、現在では「包括的性教育」の世界標準となっています。「包括的性教育」とは、性や生殖にとどまらず、ジェンダー平等や性の多様性、自己決定能力などを含む人権尊重を基本とした性教育です。この教育は、世界的な潮流として、性の権利(セクシュアル・ライツ)を保障するために広く使われています。経済や政治の分野でもジェンダー平等が課題となっている日本、もっと意識を変えて世界標準の性教育に目を向けていくことが重要ではないでしょうか。
INTERVIEW
エイズパニックを機に動き始めた日本の性教育。
最初に、先生が障害児・者の性教育を教育テーマにされた経緯について教えてください。
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伊藤
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私は以前、養護学校(現・特別支援学校)の教員をしていました。最初の勤務校で、年間約3時間ほど行っていた性教育の授業が諸々の事情で年間1時間に減ったことがありました。この流れは良くないのではないかと思い、 “人間と性”教育研究協議会(性教協)の障害児・者サークルに入り、研究を始めたのが最初です。翌年、知的障害の養護学校(高等部)に転勤したところ、ちょうど前年に生徒による校内性交事件が起きたことから、「今年度から性教育をやろう」という動きが生まれていました。そのプロジェクトに参加したことから、本格的に障害児・者の性教育に関わるようになりました。
当時は、性教育そのものがあまり積極的に行われていなかったわけですね。
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伊藤
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当時も、そして今も積極的に行われているとはいえません。日本ではどうして性教育があまり行われてこなかったのか。そのベースには、性に対するタブー感のようなものが根強くあると思います。しかし、日本でも90年代の初めに、エイズ(HIV感染により引き起こされる病気)がセンセーショナルに扱われ、HIVに感染している人に対する激しいバッシングや人権を侵害する報道がなされ、「エイズパニック」という現象が起きました。そのときに文部省も性教育をすべき方向へ舵を切って、性教育の実践が少しずつ始められました。
「七生養護学校事件」を機に後退した、性教育。
その後、日本の性教育は発展していったのでしょうか。
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伊藤
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いや、そうでもなく、一部の学校が先進的に取り組むという感じだったと思います。その先進的な学校の一つに、七生養護学校(現・七生特別支援学校)がありました。この学校は職場でしっかり話し合って、丁寧に性教育実践を積み上げ、東京都でも注目されていました。ところが、その授業内容が不適切であると都議会で攻撃され、東京都教育委員会は、前校長を降格処分に、先生方を厳重注意としました。七生養護学校では人形などを用いて男性器・女性器も含めたからだの学習をしていたのですが、それらが過激過ぎるというわけです。
性教育に対する大きなバッシングが起きたわけですね。
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伊藤
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はい。この事件の背景には、伝統的な日本の家族観や、障害者のセックスを認めない優生思想なども根強く残っているように思います。また、ジェンダー・フリーの流れに対する反動、揺り戻しもあったのではないでしょうか。とにかく、この大規模な性教育バッシングにより、日本の性教育、とくに障害児の性教育は萎縮してしまいました。性教育が行われないと、知識のないまま無防備な性行動をしてしまう若者が一定数出てきます。興味本位で性行動してしまうこともありますし、性的同意であるとか人間関係も学ばないので、不本意な性行動も増えてしまいますよね。
その後、七生養護学校事件はどうなりましたか。
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伊藤
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その後、七生養護学校にいた先生方は都教委の処分が教育への不当介入に当たるなどとして訴訟を起こし、最高裁でも勝訴しました。その裁判の影響もあり、また、2018年に、ある中学校での性教育がバッシングされた際には、そのバッシングに対する批判的な世論が形成されたこともあり、この頃から少しずつ社会の性教育に対する意識が変わり、性教育も徐々に前向きな取り組みが見られるようになっていきました。それは障害をもたない子どもも、障害をもつ子どもの性教育も同様です。
人間はみな、性を楽しむ権利を持っている。
障害児の性教育では、とくにどんなことを大切にしないといけないでしょう。
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伊藤
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私が研修などに呼んでいただいたときに、まず最初にお話しするのは権利です。ちゃんと障害者権利条約から話を始めて、障害がある人にも性を楽しむ権利があることを伝えます。そして、ユネスコが中心になって提唱している国際セクシュアリティ教育ガイダンスという、性教育の国際基準を踏まえ、包括的性教育が必要であることをお話しします。包括的性教育とは、人権尊重を基盤に幅広く、科学的根拠に基づいて性を学ぶもので、性をめぐるさまざまな要素を学びます。わかりやすくいうと、安心安全のなかで豊かに性を楽しめるように、さまざまな知識を身につけていくことが目標だと理解しています。
なるほど、人権尊重が大切なんですね。
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伊藤
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ええ。たとえば、プライベートゾーンの話になると、「触っちゃいけません」「見せちゃいけません」「触らせちゃいけません」と教える先生が多いんですね。でも、それはからだの権利を侵害することになります。自分の性器は自分だけの大切なものだから、自分で好きに扱っていいんです。そのことを先生が理解し、子どもたちにしっかり伝える必要があります。もう一つ、大事なことは人間関係です。発達障害や知的障害のある子どもは、人との距離感がわからない、とよくいわれます。そこで、先生は「腕1本離れなさい」「1m離れなさい」と、機械的に距離感を指導することが多くなります。そうなると、子どもは触れ合うこと自体がダメなことだという感覚がどんどん植えつけられていきます。人は人と触れ合うことで、セクシュアリティ(※)を発達させていくのに、それを禁止しては性を楽しむことはできません。ですから子どもたちには、「小さいときから、きちんと人と触れ合いができるようになりましょう」ということを丁寧に伝えていくことが大切です。
※セクシュアリティ :性行動の対象の選択や、性に関連する行動・傾向の総称。
世界標準の「包括的性教育」をめざして。
先生は今後、研究を通してどんな成果を求めていますか。
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伊藤
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基本的には、障害児や障害者の性教育の実践をしている方々の話を聞いて、それを蓄積して理論化していくのが私の仕事だと考えています。そうすることで、性教育に取り組まれている先生方をもっと励ましていきたいですね。ですから、校内研修などに呼んでいただければ、できるだけ足を運んで講演をさせていただいています。話を聞いてくださった皆さんは前向きに受け止めてくださるんですが、それを実践に移すには職場の合意が必要となり、そこにはまだ壁がありますね。
研究の先に、どんな性教育の実現をめざしていますか。
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伊藤
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性教育を日本の学校のなかできちんと実践するには、やはり各学校の教育課程に位置づいていかないといけないと思います。学校の教育課程の大綱的基準である学習指導要領では、ほとんど性教育は位置づいていない上に、小学5年生の理科や中学1年の保健体育で、人の受精に至る過程や妊娠の経過は取り扱わない、すなわちセックスには触れないという「はどめ規定」があります。まず、この規定をなくしていくことが必要だと考えています。また、立教大学名誉教授の浅井春夫先生が中心となって2023年秋に「包括的性教育推進法制定をめざすネットワーク」を立ち上げました。これは、ユネスコ編「国際セクシュアリティ教育ガイダンス」を日本のなかで活かすために、「包括的性教育推進法」の立法化を国会で求めるものです。今後もこの運動にも学びながら、子どもや若者たちが、科学・人権・自立・共生の理念に基づいた包括的性教育を学べる環境づくりをめざしていきたいと思います。
ぽぽろスクエアのチャレンジ
ぽぽろスクエアは、NPO法人大阪障害者センターが運営する、自立訓練(生活訓練)を活用した福祉型専攻科。自分らしく生きる力を育むために、青年期の移行期をゆっくりじっくり支援する、高校・高等部卒業後の「学びの場」です。
幸せに生きるために学ぶ
「こころとからだの学習」
ぽぽろスクエア
松原市天美我堂2丁目339-1
NPO法人大阪障害者センター「大阪発達支援センターぽぽろ」
高校卒業後の学びの場で、包括的性教育を実践。
「もっと学んでから社会に出たい」「もっと力をつけてから社会に送り出したい」。そんな障害者や保護者、教育・福祉関係者の願いを叶えるために、ぽぽろスクエアは2012年3月、大阪府内で初めて開所されました。クラスの構成は1学年8〜10名の学年制。自立訓練事業(有期限2年)の延長申請を活用し、3年制で学んでいます。通学している人の多くは、高等部・高校を卒業した青年たち。社会に出る前の大切な3年間、自分の生き方を考える時間として位置付けています。
ここでのカリキュラムで力を注いでいる一つが、「こころとからだの学習」です。週1回のペースで、国際的な包括的性教育の考え方をベースに、からだの権利、いろいろな性、内臓、男性のからだ、女性のからだ、命の誕生、おつきあい、自分を見つめる等について丁寧に学んでいます。性教育はどうしても「恥ずかしい」と感じられることもあるため、「どんな質問をしてもいいよ」と授業では話しています。オープンに楽しく学べるように、視覚に訴える教材(内性器エプロンや性器の模型等)を用意したり、いろいろな体験(妊婦体験や沐浴体験等)をしたり、ロールプレイや話し合い等、障害のある人にもわかりやすい授業を展開しています。話を否定せずに聞くことで、安心・安全の場になり、いろいろな質問や相談ができるようになります。
「性教育」「ふれあいの文化」「快の体験」を大切に、授業を組み立てる。
ぽぽろスクエアでは「快の体験」や「ふれあいの文化」を大切にした授業を行っています。
授業の初めに取り入れているのが、「ふれあいの文化」です。「フォークダンス」や「ふれあいのゲーム」をします。サイコロを用いて、ふれあいたい相手にお願いして、同意が得られれば「握手」「ハグ」「腕組み」などができるゲームです。ゲームを通して、同意を得てふれあうことや誰が自分のからだにふれるか、自分で決めることを学んでいます。充分なふれあいがセクシュアリティの発達をもたらします。その後は「快の体験」です。タオル(夏は冷やしたタオル、冬は温かいタオル)で手や顔を拭いて、「気持ちいい」を体感します。
「快」の体験を重ねることで「不快」がわかるようになり、「不快」なことに「イヤ」と言えるようになってきます。他に、ハンドマッサージや足湯等にも取り組んでいます。授業の話し合いでは恋バナをすることもあり、「こころとからだの学習」はみんなの楽しみの授業になっています。
ぽぽろスクエアが性教育を通じて伝えたいのは、「一人ひとりがかけがえのない存在であり、性に対して正しい知識をもって幸せな人生を歩んでいってほしい」ということ。ここを卒業した青年たちがやがて結婚して子育てしていく、そんな未来に思いを馳せながら、今日もポジティブな性教育に取り組んでいます。
- 教育・心理学部 学校教育学科
- 教育 / 多様性 / 社会福祉