#11 知多半島の発展
知多半島のものづくりの歴史から
地域活性化のヒントが見えてくる。

経済学部 経済学科
曲田 浩和 教授
日本近世史を主な研究テーマとする曲田浩和教授。経済学部で教鞭をとる傍ら、日本福祉大学知多半島研究所の歴史・民俗部長として、知多半島の歴史的資源を掘り起こし、調査の成果を多方面に発信しています。曲田先生に、知多半島の歴史的資源について話を聞きました。
社会課題
地域史を未来へ伝える重要性。
人口減少が進む日本では、地域の歴史や文化を学び、受け継ぐ担い手もまた減少しつつあります。そのことから地域の歴史文化の伝承が途絶えれば、地域のアイデンティティが喪失され、郷土意識も失われていくことになりかねません。
地域のアイデンティティは、それぞれの地域で長い時間をかけて受け継がれてきた生活や文化、産業活動などによって形づくられています。それらの歴史を掘り起こして学んでいくことは、自分たちが暮らす地域社会への愛着や誇りを育む上でとても貴重な取り組みです。今を生きる私たちが地域の良さを理解し、その良さを活かしてさらに発展させようと努力することによって、より魅力ある地域社会を育てていくことができます。
また、地域の歴史文化を学ぶことは、現代を知り、未来を考えることにもつながります。過去に生きた人々の考え方や行動から、現代を生きる私たちは多くの教訓を得ることができます。その教訓を現代から未来へとしっかり伝えていくことが重要だと考えられています。
INTERVIEW
環伊勢湾地域の中の知多半島を考える。
知多半島の歴史をひもとくにあたり、知多半島の地理的な特徴について教えていただけますか。
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曲田
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知多半島は小さな半島ですが、三方を海に囲まれています。ですから、私は知多半島の歴史を考えるとき、知多半島というくくりではなく、環伊勢湾地域の中の知多半島と捉えるべきだと考えています。環伊勢湾地域の範囲は、知多半島の西側にある伊勢湾と、東側に接する三河湾を合わせて、さらに、その周辺部の海に面する地域と河川でつながる地域を指します。今でいうと、愛知、岐阜、三重、静岡、長野県であり、 江戸時代であれば、尾張、三河、美濃、飛騨、遠江、信濃地域になります。

環伊勢湾地域にあって、知多半島ではどんな産業が営まれたのでしょうか。
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曲田
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三方を海に囲まれていますから、知多半島では昔から海運業が発展しました。船は、ものや人を運ぶだけでなく、情報や人々の考え方も運びますから、ものづくりの技術や経済の考え方なども知多半島に数多くもたらされたのだと思います。そうしたなかで、ものづくりも盛んに行われていました。私の研究テーマも、この「知多半島のものづくり」に焦点を当てて調査を展開しています。
江戸時代にできた三つのブランド。
知多半島のものづくり、というと、ちょっと意外な印象もあります。
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曲田
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学生に話すと、ピンとこないという人も多いですね。でも実は、江戸時代の知多半島には、三つの全国ブランドがありました。それは、「常滑焼」「知多木綿」「知多酒」です。こんなに小さな半島で三つも全国ブランドがある地域は、全国どこを探してもないと思います。全国ブランドが生まれたのはまず、技術力があったこと、そして、その製品を販売するための海運業が盛んだったことがあると思います。江戸時代の流通の流れは、上方から百万人都市の江戸へ流れていきました。知多半島は、江戸の消費を支えた天下の台所である大阪よりも江戸に近いメリットがありましたから、そこにビジネスチャンスがあったというわけです。
各ブランドの歴史について、それぞれ簡単に教えていただけますか。
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曲田
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もっとも古いのは、常滑焼です。知多半島の産業は江戸時代に大きく発展したわけですが、常滑焼はちょっと例外で、知多半島のやきものは12世紀に始まったとされています。その後、常滑に窯が集中し、鎌倉時代には常滑焼がブランド化され、とくに大甕の製造が有名でした。常滑は、瀬戸、備前、丹波、信楽、越前のやきものとともに「日本六古窯」と呼ばれていますが、信楽、越前は常滑から技術が伝搬したと言われています。次に古いのは、知多木綿です。戦国時代に各地で木綿業が活発になり、上方の河内木綿が江戸へ運ばれていました。環伊勢湾地域では伊勢木綿が当初からあり、同じように江戸へ販売されていました。そうした影響から、知多半島で木綿産業が盛んになっていったと考えられています。江戸時代後期から幕末にかけて、知多半島の白木綿が人気を集め、知多木綿は有松絞りの材料にも伝われたということです。明治時代に入ると、トヨタグループ創業者の豊田佐吉により、国産の動力織機がつくられ、手織機から動力織機、自動織機へと発展。大小さまざまな織布工場が知多半島一円に広がりました。

危機を乗り越えるために、酒造から醸造に転換。
三つのブランドの中でもっとも新しいのが、知多酒なんですね。
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曲田
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そうです。酒造りはもともと三河が中心でしたが、その中心が知多半島に移っていきました。酒づくりには酒造好適米というお米が必要ですが、江戸時代は酒造好適米という概念がなく、とにかく大量のお米が必要でした。知多半島の酒造家たちは海運ルートを使って三河や伊勢、桑名などから調達し、酒造りに邁進していきました。18世紀には、知多酒は江戸の人々に愛飲されていたようです。でも、19世紀に入ると供給過多になってしまい、売れ行きが鈍っていきました。とくに知多の酒は灘の酒などに比べると味が劣るということで、ガタンと売り上げが減っていきました。
それは、知多半島の経済において大きな打撃だったでしょうね。
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曲田
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ええ。酒造がダメになってどうしようという、すごい危機に陥ったと思います。でも、知多半島の酒造家たちはそこで諦めることなく、その危機をどうやって乗り越えるかみんなで考え、新たな産業につなげました。それが醸造業への転換で、酒粕を原料に酢やみりん、味噌、醤油をつくるようになったのです。粕酢は握りずしと結びつき、大豆中心の豆味噌(赤味噌)は独自の食文化を生み出しました。江戸時代は醤油や味噌、みりんなどの醸造調味料が普及し、食の味わい方、楽しみ方が一気に成熟していった時代です。そうした時代の変化に即応しながら、産業を発展させていったわけですね。

なるほど。少し大げさな言い方をすると、知多半島は当時最先端の食品を軸に発展した、江戸時代の日本のシリコンバレーだったと言えそうですね。
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曲田
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そう思います。江戸時代は、醤油やみりん、味噌といった、おいしい料理に不可欠な食品を供給する貴重な地域だったと思います。そのため、江戸時代に事業を起こし、現代まで続く企業もいろいろあります。たとえば、粕酢の可能性を見出し、醸造を手がけた中埜又左衛門は、ミツカングループの初代にあたります。そのほか、豆味噌、醤油の醸造では、盛田(株)が有名です。盛田家15代目の盛田昭夫さんは、ソニーの創業者としても知られていますよね。
歴史を学び、未来へ伝えていく。
知多酒はその後、全くつくられなくなったのでしょうか。
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曲田
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盛田家の歴史をひもとくと、酒造業から醸造業にすぐ転身したのではなく、知多酒の盛り返しに力を注いだ時期もありました。そのことを裏づける秘伝書が近年、盛田家の蔵で見つかっています。それは『童蒙酒造記(どうもうしゅぞうき)』で、伊丹の鴻池流が江戸時代の最初の頃に書いたものです。この秘伝書、知多の酒造家にはなかなか手に入らなかったのですが、江戸時代の終わり頃、1840年代に盛田家が手に入れて、内容を書き写したそうです。盛田家の歴史によると、「天保6年(1835)9代目の頃、年々、灘、伏見の巻き返しに合い、大幅に落ち込んだ。10代目久左衛門英親(ひでちか)と第6子の弟、久左衛門命祺(めいき)(1816~1894)は醸造法の改良を行い、灘、伏見に負けない品質の清酒を醸造して挽回を図った。(※1)」とあり、まさに時期が一致します。この秘伝書は、明治に入ると無用の長物になりますが、その後も大切に保管されてきました。おそらく先人が積み上げてきた、ものづくりの気概や意気込みを大切に残していくためだったのでしょう。このものづくりの精神は、盛田昭夫さんにも受け継がれているように思います。
※1 引用:盛田家について(http://www.akiomorita.net/morita/history.html)
知多半島には、起業家精神に富んだ人たちが多かったんですね。
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曲田
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そうなんです。知多半島は、日本経済団体連合会(経団連)の会長を2人出していることでも知られています(※2)。会長の打診を受けて倒れて辞退した盛田昭夫さんを含めると3人です。それだけ日本の産業界に貢献するような精神が培われてきた地域ということもできます。このように地域の歴史を掘り起こすとき、経済学的な視点を入れながら分析していくと、非常に興味深いことがわかってきます。先ほどお話しした「危機を乗り越えるためにみんなで知恵を出し合ったこと」も現代に通じることですし、そこから地域活性化のヒントが見えてくると思います。地域の歴史を学ぶことは過去の出来事を掘り下げるだけでなく、現在や未来の地域社会を考えることにつながります。これからも知多半島の歴史を学び、人々の貴重な考え方や精神、文化を未来へ伝承していきたいと思います。
※2 平岩外四氏(第7代会長)、榊原定征氏(第13代会長)
鈴渓資料館のチャレンジ
知多半島の政治・経済を支え、文化を育んできた盛田家には、近世初期からの歴史資料が数万点規模で残されています。それらの歴史資料を保存・活用しているのが「鈴渓(れいけい)資料館」です。常滑市小鈴谷には、盛田家本家を挟んで「盛田昭夫塾」と「鈴渓資料館」があり、一般の人々も見学できるようになっています (要・予約)。

15代当主、盛田昭夫氏が資料館を開館。
江戸時代の盛田一族は本家を中心に、小鈴谷村の庄屋を務めると同時に、造り酒屋を経営し、地域の有力者として知多半島の経済発展の一翼を担ってきました。こうした江戸時代からの貴重な資料は、盛田家本家にある二つの倉(紙倉・新倉)に保存されてきました。1984年、倉を天災などから守るため、15代当主盛田昭夫氏が保管事業に着手。倉自体を建築物のなかに納め、その一角に資料館を建てました。これが、鈴渓資料館の始まりです。
鈴渓資料館の名前は、江戸時代の村名、小鈴谷から採ったものであり、明治時代に盛田家の11代久左エ門(隠居後、命祺)が創設した私塾「鈴渓義塾」と同じです。鈴渓資料館はその教育の志も受け継いでいるといえます。
「紙倉」に納められているのは、盛田家が庄屋を務めた時代の村方文書や、江戸時代から明治末年にかけての大福帳をはじめとする経営文書、冠婚葬祭関係などの古文書です。村方文書には、尾張藩の法令などを記録した御触書(おふれがき)や小作人の情報が網羅されていて、江戸時代の村の様子や暮らしを思い浮かべることができます。また、興味深いものとして、明治時代に親交のあった福沢諭吉の書状なども大切に保管されています。これらの古文書は聖心女子大学の教授によって整理され、資料の目録(『盛田家文書目録』上下巻)は、全国の主な図書館や大学に送られました。目録を見た人からの閲覧希望があれば、速やかに紹介できるようになっています。

江戸から昭和にわたる生活文化に出会える場所。
もう一方の「新倉」には、江戸時代から昭和初期に及ぶ、盛田家の私的な書籍、古文書類、生活用具が保管されています。たとえば、江戸時代の作成された書籍、明治以降の新聞、雑誌、正月用の祝膳、徳利、ひな人形、太鼓や三味線といった祭り道具など、昔の生活を彷彿とさせるさまざまなものが収められています。これらの道具類は定期的に展示内容を入れ替えて、来館者に多彩な展示物を紹介するようになっています。また、これらのうち、書籍や古文書については、2018年より日本福祉大学知多半島総合研究所によって調査・整理が行われています。そのほか、盛田昭夫氏の出生記録や日記なども多数残されており、その一部は隣接する「盛田昭夫塾」で展示されています。

なお、鈴渓資料館を運営する一般財団法人 天涯文化財団では年に1回、「知多半島歴史文化研究発表会」を開催。毎回テーマを決めて、知多半島の歴史や文化をわかりやすく紹介しています。鈴渓資料館では今後も、貴重な古文書や道具類の保管事業に、こうした発信活動も加えつつ、知多半島に伝承されてきた政治、経済、文化、教育などの歴史を未来へ伝えていこうとしています。
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