日本福祉大学

日本福祉大学 学園創立70周年記念サイト

日本福祉大学 70年のあゆみ 1953〜2023 日本福祉大学 70年のあゆみ 1953〜2023

日本福祉大学70年のあゆみ

日本福祉大学の70年のあゆみを
いくつかの物語とともにご紹介いたします。

#3 中部社会
事業短期大学の創立

創立への情熱

創立の頃のキャンパス 創立の頃のキャンパス

はじまりは、学生数83名の小さな短期大学  日本福祉大学の前身、中部社会事業短期大学は、1953(昭和28)年4月、名古屋市昭和区滝川町の地に誕生した。学生数83名、専任教員6名、校地面積4234坪(1万4000㎡)、運動場1万1361坪(3万7560㎡)、専用校舎面積616坪(2040㎡)という小さな規模の短大であった。

 1950年代の初頭、社会福祉事業従事者を養成するための専門教育機関としては、東に日本社会事業短期大学、西に大阪府立社会事業短期大学の2校があるのみであった。中部地方においては、名古屋大学に社会事業学部を設置する動きが占領期にあったとされるが、実現には至らないまま立ち消えとなっており、社会事業関係者の間では、従事者養成教育機関の設置が切望されていた。
 学園創立者鈴木修学は、昭和初期から「救らい」活動などの社会事業に挺身した宗教家であったが、戦後、法音寺山首として宗教活動に携わる傍ら、財団法人昭徳会(社会福祉事業法の施行により、1952年より社会福祉法人昭徳会)理事長として児童や障害者の施設の運営にあたっていた。
 中部社会事業短期大学の創立は、人間愛と科学的精神に満ちた社会福祉事業従事者を自らの手で育てたいという鈴木修学の熱い思いが全国の信者の方々に支えられて実ったものであった。それはまた、地元関係者、行政機関をはじめ、多くの心ある人びとの要請と支援に応える道でもあった。

創立者 鈴木修学先生 創立者 鈴木修学先生

人類愛の精神に燃えて立ち上がる学風が、
本大学に満ち溢れたいものであります。
 鈴木修学は、設立の認可を受けて起草した「建学の精神」の中で、「人類愛の精神に燃えて立ち上がる学風が、本大学に満ち溢れたいものであります」と述べた。この精神は、今日に至る学園の歴史の中で受け継がれ、人間福祉複合系大学づくりを目指して歩み続ける学園の導きの灯となっている。

教育と研究

建設中の中部社会事業短期大学 建設中の中部社会事業短期大学

中部社会事業短期大学の教育と研究  中部社会事業短期大学の発足にあたって、多くの人々が鈴木修学を支え、教学を軌道に乗せる上で大きな役割を果たした。
名古屋大学医学部精神科村松常雄教授は、名古屋大学における本務の傍ら、中部社会事業短期大学の教学の基本構想策定、教育課程、教員計画などについて具体的に助言しただけでなく、教学権の自立、教育研究の保障などにかかわる「村松五原則」を提示した。

 また、村松教授は、人間関係研究所を創立して研究所長(非常勤)を務め、研究面でも指導的な役割を果たした。
 清新な学風に惹かれて全国から集まった創立期の学生は、高校を卒業したばかりの現役生から、経験豊富な社会人まで、年齢、経歴ともに多様であった。多くの学生がキャンパス内外の学生寮で生活し、狭く、貧弱な木造校舎に驚きながらも、新しい大学の創造に意欲を燃やす教員とともに社会福祉を学んだ。教室の中の講義だけではなく、社会調査を含む実習教育も重視され、教員と学生の結びつきは密接であった。教職員住宅に住む教員を訪ねて、昼夜を分かたぬ議論に時を忘れる学生も少なくなかった。
 東西の社会事業短期大学との交歓会も大学をあげての重要な行事の一つであった。

 短期大学が発足した翌年の1954(昭和29)年には、働きながら学ぶ学生に門戸を開くため第2部(夜間部)を開設した。1955年には、現場に出たのちも勉学を続けたいという希望に応えて短期大学部専攻科(1年課程)を設置し、また、現場職員の現任研修のための場として中部社会事業学校を開設した。中部社会事業学校は、1957年までの3年間に20名の修了生を送り出した。

基盤の構築

中部社会事業短期大学 第1回卒業式(昭和30年3月) 中部社会事業短期大学 
第1回卒業式(昭和30年3月)

創立期の教学と「村松五原則」  中部社会事業短期大学の創立は地元の社会事業、行政関係者から大きな期待をもって迎えられ、厚生省、全国社会福祉協議会をはじめとする中央官庁、社会福祉関係諸団体、関係大学からも温かい支援が寄せられた。こうした期待に応えて、中部社会事業短期大学は、第2部(夜間部)の開設、保母課程の設置、専攻科の設置、中部社会事業学校の併設などを進め、社会事業従事者の養成とともに多様な形態の研修事業に取り組んだ。

教学の基本構想の策定、教育課程、教員計画などについては、村松常雄名古屋大学医学部教授が相談役として迎えられた。

村松教授は、教学権の自立、教育研究の保障などにかかわって次のような5つの原則を提示された。
⑴教員の人事については教授会が決定権を持つこと。 ⑵学問と思想の自由のたてまえから大学教育の宗教からの分離。 ⑶教員の給与は将来とも教育公務員給与を下まわることなくむしろそれ以上に努力すること。 ⑷個人研究室、研究費、附属人間関係研究所の設置等教員の研究の便宜をはかること。 ⑸遠隔地から赴任される教員には住宅を保障すること。
創立期の教学は、この「村松五原則」に則って整備された。中部社会事業短期大学の創立から今日に至る学園の教学・研究・管理運営の礎は、この「村松五原則」のうえに築かれたといえよう。

人間関係研究所の開設  中部社会事業短期大学の開設とともに附属人間関係研究所が設置された。
「設置要綱」には、設立の趣旨が次のように述べられている。
「人間形成並びに社会構成の過程に於て生起する人間関係の諸問題及び夫等人間関係調整に必要な原理と方法を、自然科学、社会科学等の関係諸領域より綜合的に研究し、社会事業の理論並びに実際の学問的基礎を確立することを目的とする」
 臨床研究の場として相談部が付設され、主に児童問題についての相談を行った。専任教員全員が同研究所の研究部に所属し、研究部には、社会事業・社会問題・精神衛生・公衆衛生・心理学・教育学・社会学・文化人類学の研究室が置かれ、現場と交流しつつ研究を進める体制を取った。

回顧録

創立のころ日本福祉大学名誉教授
浅賀 ふさ(故人)

浅賀 ふさ教授を囲んで 浅賀 ふさ教授を囲んで

鈴木修学初代学長先生から御誘いをうけた時私は厚生省児童局に働いていました。占領中に制定された児童福祉法をつくる仕事が主でした。その中で私達が主張し、一応とりいれられた2つの点は消極的な救済だけでなく、すべての児童の人権保障ということと、児童福祉司という日本には新しい職種に専門資格者を任用することでした。然しその頃は社会福祉の専門教育機関は東京に一校あるだけ、やがて大阪に短大ができましたが、社会福祉専門職員の資格条件は未だ漠然として、なきに等しく、善意のある人ならば誰でもよいと考える人々も多かった時代でしたが、教育された専門家の仕事だという理解が生まれ始めたのもその頃で、その声は追々高まって行きつつありました。

名古屋に中部社会事業短期大設立が計画されたのは、ちょうどこのような時代の要求に応えたもので、我国で3番目にできた社会事業短期大学として、25年前に誕生しました。

最初に集まった人達は80名の1クラス、先生の数も少なく、建物も不備でした。私もアメリカの大学院で社会事業の勉強をして来ましたが、日本で社会福祉専門職員をつくる教育の側に立っては自信がなく、現場で働くソーシャル・ワーカーにまず必須のケースワークの知識と技術を必死になって学生に伝えることで精一杯でした。これは人間理解と問題をもつ人間の立場から社会を見るという点で自分自身にも良い勉強になりました。このころの想い出で一番心に残るのは学生一人一人と親密な接触ができたことで、学生の方からも研究室をよく訪ねて来まして人生観を語り合ったこともありました。ことに社会福祉の大学ができたことに驚きと喜びを表明しながら、何故自分がこの大学を希望したか、身内に障害者があったり、家庭が冷たくて、何かを求める心を訴える人もあり、話しあいの中で学生の自己洞察を援助したこともありました。卒業論文は短大生にとって重荷であったらしく、論題がなかなかきまりませんでした。80名足らずの学生一人一人に会って、めいめいの関心のある処を引出す話しあいの中から、身近な問題、例えば家庭の中に存在する封建制とか家族関係の問題、虚弱児・障害児等の問題にしぼって論題を決めることができました。夕日のさす部屋で話しあったあの頃の学生達は、今は職場で中堅的存在となって居られることでしょう。
学長代理の村松教授を議長とした教授会も民主的な良い慣行の伝統の基礎をつくったことを記しておきたいと思います。 「日本福祉大学の二五年」より転載

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