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日本福祉大学 学園創立70周年記念サイト

日本福祉大学 70年のあゆみ 1953〜2023 日本福祉大学 70年のあゆみ 1953〜2023

日本福祉大学70年のあゆみ

日本福祉大学の70年のあゆみを
いくつかの物語とともにご紹介いたします。

#1 学園創立者 鈴木修学

※「日本福祉大学の二十五年」(昭和53年6月6日発行)より抜粋。肩書、表現は当時のもの。

 日本福祉大学は、その生涯を社会事業にささげた宗教家 鈴木修学によって開設された。
 それは、社会の革新と進歩のために、人間愛と科学的精神に満ちた福祉に働く人びとを育てようという、長年の社会事業活動から生まれた修学の切なる願いからであった。
 今日の福祉大学にいたるあゆみは、修学が宗教的信念と社会事業への情熱を胸中に燃やしはじめた青春時代からすでにはじまっていた。

創立者 鈴木修学先生 創立者 鈴木修学先生

誕生、青春時代

修学は、明治35年、尾張平野の片田舎であった愛知県丹羽郡布袋町(現 江南市寄木)に、お菓子の卸売を兼ねる農家の長男として生まれ、修一郎と名づけられた。
幼いころより、信仰心のあつい父と母から、毎夜のように法華経の訓読や仏の教えの話を聞きながら成長した。6人兄弟の長男のため、布袋高等小学校を卒業するとすぐ家業を継がねばならなかったので、早稲田大学の講義録などを取寄せ独学で勉学にはげみながら青春時代をむかえた。

仏教感化救済会との出会い

  • そしてそのころから、敬虔な環境に育った修一郎は、矛盾に満ちた社会や人間の存在などに深く悩むようになり、なに不自由のない自分自身にすら懐疑的になっていった。この青春の煩悶からの救いを求めて、名古屋市内にあった法華系の新宗教修養団 仏教感化救済会の門をたたいたのだった。修一郎は、そこで、当時「末法救済の使命を帯びてこの世に出世した」としたわれていた会長 杉山辰子に出会い、法華経の功徳を説く杉山の話に深い感銘と心のやすらぎをおぼえたのであった。修学23歳の春であった。

    その後、修一郎は求道にはげんだ。27歳の時、ついに親の反対を押し切り、家業を捨てて救済会の布教と社会事業に専心しようと決意した。正式に入会した修一郎は、杉山の養女みつと結婚、宗教家としての第一歩をふみだした。それは、極度の経営難のため助成を求めてきていた福岡市の松原ハンセン病療養所にはじまった。

  • 若い頃の鈴木修学 若い頃の鈴木修学

仏教感化救済会での活動-ハンセン病療養所など-

 主任として妻みつとともに福岡へ赴任した修一郎は、予想をはるかに上回る窮状にがく然とした。荒廃した施設の修理はできたものの、極端に貧しい患者たちの治療費を、救済会からの送金だけでまかなうことは到底無理であった。生来の明るさとゆるぎない信仰心で、社会から忌みきらわれ、療養所を隔離施設として一生とじこめられてしまう運命にあった患者たちに、生への希望をともさせはしたが、青年修一郎の献身的な努力でも資金不足には勝てなかった。

 だが、失意のうちに名古屋に帰った修一郎には、すでにつぎの仕事が待っていた。県内の知多郡阿久比村(現 阿久比町)に1町5反歩余の田畑と50町歩余の山林をもとに農場をひらき、そこで社会から見離された不良少年たちを感化する仕事であった。修一郎は、青年たちと寝食をともにしながら、労働の喜びと生きる道を説き、かれらの心をひらいていった。

 ようやく事業が軌道にのりはじめた矢先、恩師 杉山辰子の死に接した。昭和7年のことであった。しかし亡き師から与えられた2つの実践は、若き修一郎に、社会事業への情熱だけでなく、経営のあり方などを体得させ、人びとの救済に生涯をささげようと決意させたのだった。

  • 生の松原療病院 生の松原療病院

仏教感化救済会の事業継承と太平洋戦争

 杉山辰子の死後、救済会は教化部門の仏教樹徳修養団と社会事業部門の大乗報恩会にわかれることになり、修一郎は、財団法人となった報恩会の常務理事として師の遺志をつぎ、法華経の流布とともに、社会事業に全力をそそぐことになった。修一郎33歳の時であった。

 修一郎は、さっそく養護施設駒方寮の建設をはじめ、さらには少年の感化、孤児の収容など事業への情熱を燃やしていった。世情は、中国での侵略が泥沼化し、長びく不況で極度の貧困におとしいれられた農民や失業者が全国にあふれていた。このため、つのる不安から信徒はふえ、社会事業の使命もまた大きくなる一方であったので、修一郎の仕事はますますひろがっていった。

 しかし、わが国は、ついに無謀な戦争(太平洋戦争)に突入した。挙国一致の体制で国民を戦争へ総動員しようとした国家は、既成の宗教以外でひたすら自己の信仰に根ざして人びとを救おうとする心ある宗教者たちさえ危険思想視して、きびしい弾圧を加えてきた。昭和18年の春、大乗修養団も治安維持法違反の疑いで特高の捜査を受け、修一郎は連行されていった。58日間の拘留後、修養団の布教活動は禁止され、社会事業部門だけが昭徳会と名をかえて続けられることになった。

敗戦、大学誕生前史
-宗教法人法音寺山首、社会福祉法人昭徳会理事長に就任-

  敗戦。ようやく平和がよみがえったとはいえ、戦争の傷痕は大きかった。街の焼跡には戦災孤児や戦傷者があふれ、人びとは飢えに苦しんだ。修一郎の仕事は、いっそう多忙になっていった。

  だが、弾圧いらい布教活動を禁止されていた修養団は、分派が生まれたりして動揺していたので事業へ全力をふり向むけることができなかった。そのため、一日も早い再建が望まれた。修一郎は、この苦い経験から、日蓮宗に帰属し、みずからも出家、得度して再出発することを決意した。こうして修一郎は修学と名をあらため、昭和22年、修養団を解消し日蓮宗昭徳教会を設立し、修学が会長となって布教が再開された。修学はさらに翌年同宗寺院住職の資格を得、昭和25年法音寺と寺号を公称することになった。

  この間も、修学の事業への熱意はかわらなかった。名古屋養育園、知的障害児施設八事少年寮などを引継いだ。そこで、とくに戦災で孤児になり、浮浪生活ですさみきった子らと接して暗然となった。この体験や、障害を持つ子らを思うにつけ、未来をになう子こどもたちを育てていくために、どうしても、人類愛に根ざしながら社会福祉に働く青年たちの育成が急務であることを痛感するようになっていった。それは、国民への福祉がもはや国の責務となったにもかかわらず、極端に人材が足りなかった自治体や社会事業者たちからの要望でもあったのだった。

  そのころ、全国社会福祉協議会(全社協)をはじめ愛知県、名古屋市の協議会の理事やその他社会福祉関係の要職をつとめるようになっていた修学は、この事業を自分に課せられた使命であると考えた。そこで修学は、信徒たちに福祉に働く青年を育成しようと呼びかけ、全社協、厚生省、文部省、愛知県、名古屋市などや理解ある教育者たちへ協力を求め、大学建設に奔走することになった。

  • 建設中の中部社会事業短期大学 建設中の中部社会事業短期大学 駒方寮にて 駒方寮にて
  • 中部日本新聞(現 中日新聞)(昭和27年11月16日) 中部日本新聞(現 中日新聞)
    (昭和27年11月16日)

中部社会事業短期大学誕生、そして4年制大学へ

 この努力の結果、昭和28年、法音寺学園中部社会事業短期大学が昭和区杁中の地に産声をあげ、修学は初代学長に就任した。そしてさらに、修学はひろがる国民の福祉への期待にこたえるべく、昭和33年、短大を4年制の日本福祉大学へ昇格させ、翌年には付属立花高校を新設させた。

 設立はしたものの教学充実の課題は山積していた。修学は連日疲れをいとわず布教に教育に奮闘を続けた。しかし、すでに3度にわたり脳血栓に倒れていた修学は、昭和37年高校事務室で倒れ、60歳の生涯をとじたのであった。

  • 創立の頃のキャンパス 創立の頃のキャンパス
  • 中部社会事業短期大学 第1回卒業式(昭和30年3月) 中部社会事業短期大学 第1回卒業式(昭和30年3月)
  • 大学名を掛け替える鈴木修学学長 大学名を掛け替える鈴木修学学長
  • 日本福祉大学校章 日本福祉大学校章
  • 昭和32年頃のキャンパス 昭和32年頃のキャンパス
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