「空 蝉」
正則高等学校 2年
平松 尚子
じいちゃんの金魚のふん。親戚は口を揃えて私のことをこう呼んだ。おじいちゃんっこだった私は、祖父の行くところはとにかくどこへでもついていった。田舎へ帰るたびに満面の笑みで「おかえり」と迎えてくれて、何もかも正面から受けとめてくれた祖父は、私にとって本当に大きな存在だった。
そんな大好きな祖父の元に帰省したある日、私は祖父と行ったお墓参りの帰りにセミの抜け殻を見つけた。祖父は丁寧にそれを手にとると「空蝉じゃな」と言った。「うつせみ?」、まだ真夏の日焼けも気にしないような年齢だった私は、その聞いたこともない響きの単語に首をかしげるしかなかった。
「セミの抜け殻のことをそう呼んだりもするんじゃよ。地上に出てきてからのセミの命はとても短い。だが、こんなにも一生懸命鳴いて一生懸命生きとる。だから、じいちゃんも尚子もきばらんとね。」
セミの大合唱のなか、祖父はそう言って目を細めて笑った。その姿は子供ながらになんだかとても眩しかった。繋いだ手は汗ばんでいたけれど、温かかった。
先日、調べ物をするために辞書を引いていたときのこと。ふと目についた「空蝉」という文字のところで手を止めた。あれから何年もたったことを懐しく思いながらそこを読んでいた私は、ある箇所で思わず目を見張った。
『空蝉(うつせみ)とは、蝉の抜け殻、またはそのもの。この世に生きている人間。
古語の「現人(うつしおみ)」が訛ったもの。転じて、生きている人間の世界』
これは、あの夏の日の隠された答え合わせだと直感的に思った。博識の祖父のことである、口にしなかったとはいえ、きっとこの意味を知っていたはず。勿論これがただの憶測にすぎないということは分かっている。“だから、じいちゃんも尚子もきばらんとな”ふと聞こえないはずの声がした気がした。それは、祖父が写真の中から笑いかけるようになってから、二度目の夏だった。
「空蝉」という言葉を聞いてから何年も経った後に辞書を引いて意味を知ったという時間の流れが、短期間で結論を出さなければいけないという風潮のある現代だからこそ、新鮮に感じました。そして、締めくくりの「祖父が写真の中から笑いかけるようになってから、二度目の夏だった」が工夫されていて、おしゃれです。「繋いだ手は汗ばんでいたけれど、温かかった」の部分も、人のぬくもりが伝わってきて、優れた表現力を感じます。
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