JAM SESSION
STAGE 5

市民とはなにか

● 佐々木
そもそも万博のおかげで,多いときには三日にあげずという感じで萩原さんにお会いするようになったわけですが,博覧会でも市民参加ということが一つの重要なキーワードになっていますよね.私が関わっている動機は少し違って,公共事業のやり方や物理的に出来上がる道路や会場のデザインへの問題意識からスタートしているわけですけれど,結果的にはこの市民参加の問題も考えざるをえなくなってきました.それで改めて思うのは,市民とは何か,ということなんです.このところ,市民という言葉がなにかすごくいい響きをもって跋扈してるようで,ちょっと危ないという気もするわけです.根があまのじゃくだから(笑い).それはともかく,「市民の会」の代表である萩原さんにとって,「市民とは何か」という問いに対しての答はどうなるのですか.

● 萩原
当時は僕も整理できてなかったけれど,今は言葉ができていて「社会に責任を負ってコミットする人」だと思う.だから,町民市民の市民とも違うし,行政の言う市民ともちょっと違う.行政の中にいても自分の言葉で語って,その言葉に責任を持ってコミットする人であれば,「市民」なんです.そういう意味では「私」という意味かな.

● 佐々木
なるほど.一方で例えば市民運動とか,市民が何かを動かしていくというときに,ある種そこに組織化というのが必要になりますよね.それを組織と呼ぶか,ネットワークと呼ぶか,その辺は微妙だと思うんですが,最初は一人ですし,関わるのも常に一人,私のよく使う言葉でいえば「個人」としてなんですけれど,でも個人の力の限界を越えていくには,何らかの組織化が必要になってくるのでは?

● 萩原
だけど,その個人の力を最大限引き出せる枠組みでなきゃいけないんだよね.個人を殺すような組織形態が,企業セクターや行政セクターの中にある.そうでない組織形態が必要なんだと思う.そして多分ネットワークという手法が,個人が死なない方法なんだと思う.一時期「ネットワーキング」ということが,有名な本も出たりして,盛んに言われていたことがあるけれど,それは実は弱いもののもたれ合いという組織で,何も生まれなかった.

● 佐々木
それは,結局仲間内で閉じていたからですか.それが90 年代になって変わってきた,開いてきたというようなことがあるのかしら.

● 萩原
たとえば,有機農業運動の全国組織をモデルにネットワーキングを探っていた金子郁容氏が,「開く前に閉じなきゃいけない,私は私であるといってから関係を結ばなきゃいけない」という表現をよく使っておられた.そういう意味では,NPO だとか市民社会という言葉を知るようになって考えてみると,市民として社会のなかでの明確な役割や位置を持っているかというと,ないわけで,非常に無責任,誰かが何とかしてくれるという依存を中心とした社会が今もあるわけです.市民はいない.厳密に言えば少しはいるけれど相対的にはいない.だからこういう状況が起きているわけです.

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それは第一セクターや第二セクターというものが,社会サービスを担ってきたツケなんですね.でもいまは時代の変わり目だと思うんです.

● 佐々木
一方でそういう意識を持ちつつある人と,そうでない人とのギャップというのか,聞こえのいい言葉で言えば「多様化」かもしれませんが,ある種の層別化が進んでいるようにも思えますね.本当の「市民」と流行言葉としての「市民」,あるいは「市民」と名のる排他的な組織などを別段区別しようというわけではありませんが,私個人はどうも素直に「市民」という言葉が使えなくて,引っかかる.そこで『「市民」とは誰か』(佐伯啓思氏著)なんていう本を読んでみたわけですが,そこでは,ヨーロッパというのはある程度市民というのが確立している社会であるけれども,その前に国家とか,あるいはもっと身近なところでいえば教会単位のコミュニティーとか家族,民族というものがかなり連綿として強く存在している.もちろん国家は流動するものであったけれど,自分が帰属している何らかの社会のアイデンティティーというのは,結構はっきりしている社会であった.だから逆に「個としての市民」というところの責任感であったり,自立という概念がありえるということが明快に書いてあって,なるほどと思ったわけです.

● 萩原
僕も言葉の背景などはあまり考えずに使っていて,「市民」という言葉がどういうふうに日本で使われてきたかというのがようやくわかってきたんですが,やっぱり決定的に「ああそうか,そういうふうに物を見た方がいいな」と思ったのは,南山大学の小林教授との出会いだった.彼とコンセンサス会議をめぐっていろいろ話をした後,別れ際に彼が「僕は右翼じゃないよ」と言いながら一冊の本を渡してくれたんですよ.それが佐々木さんの言った「『市民』とは誰か」という佐伯啓思さんの本だったわけ.それを帰って読んでみたら,「あっ,僕が言いたかったことで,小林さんとつながっていたのはこのことだ」というのがわかるわけです.それがさっきの重層的な歴史観なんですよ.小林さんもコンセンサス会議ということをやりながら,「市民」というものに対して非常に疑いを持っていた.僕も現場の中でエゴイスティックな「市民」と言われる人たちに対しては,おかしいと思っていた.やっぱり同じところがあった.

● 佐々木
「市民」という言葉,あるいは私の分野でいえば「まちづくり」という言葉もそうですが,それに込められる期待,あるいはそれが引きずっている歴史や背景に対する認識や理解が,その言葉を使う人によってかなりばらばらですよね.このばらばらであること自体が日本の社会の混乱や閉塞状況を表しているようにも思えますが,まずは,市民って何だろう,個人って何だろう,という議論を様々な場面で折に触れて繰り返ししつづけることが市民も社会も成熟していくプロセスとして必要なのかも知れませんね.時間がかかりそうですけどね.

 

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