「16歳の時に何も知らないまま不妊手術を受けさせられ、術後、ひどい生理痛に苦しんだ。結婚したが、子どもを産めないことがもとで離婚した」 旧優生保護法(1996年、「母体保護法」に改正)による被害者の声である。私はいま、16歳。病気で右半身が不自由だ。彼女は、私だったかもしれない。 旧優生保護法は、障がい者らに対して、本人の同意なしに、不妊手術を認めた。厚生省は、「体を拘束したり、だましたりして手術をしてもいいと通知」した。 都道府県は、国に従い、手術の件数を競った。行政は、「公共の福祉」の名の下、障がい者は不幸で、当事者だけではなく、社会全体が不幸な子どもが生まれないでほしいと望んでいると宣伝した。結果、約2万5千人が手術をされ、うち1万6千人が強制だった。 旧優生保護法は、ハンセン病者への断種や堕胎の強制も容認した。国は、ハンセン病は「恐ろしい伝染病」と宣伝した。そして、患者は、「らい予防法」(1996年廃止)の絶対隔離政策によって、家族や古里、名前などの基本的人権を奪われ、労働も強いられた。2001年、「らい予防法」は、違憲と断罪された。 私は、ハンセン病回復者と何度も交流し、彼らの生き抜いた歴史を記録している。人としてのやさしさに触れ、人や社会は、どうあらなければならないかを学び続けている。 同じだと思う。旧優生保護法も「らい予防法」も国が作り、障がい者やハンセン病者の人権を奪った。ハンセン病者への絶対隔離も、「無らい県運動」という官民一体の政策で、都道府県が競って、患者を地域からあぶり出した。基本的には市民の密告によって強制隔離を徹底した。 国の責任は明確だ。だが、それだけか。国や行政の主張を鵜呑みにし、障がい者やハンセン病者を直接的に排除したのは、私たち市民だった。 責任は、私たち市民にもある。私は、被害者でも加害者でもあったはずだ。 (参考:「障害者ら被害 どう向き合う」2018年7月2日『朝日新聞』)
この作品は社会的な問題をタイムリーに取り上げ、作者が感じた問題意識を加えて、「自分が加害者だったかも」と一歩進んだ考えでまとめています。テーマを自分に引きつけて考え、文章がわかりやすいことも、高く評価されました。ハンセン病回復者との交流から得た学びに加えて、情報や知識をしっかり調べて盛り込んでいる点も良いですね。