最近、母の茶碗を洗っていない。私の日常から母がだんだんいなくなっていくようで、ふと怖くなった。 この春、私は特に行きたい高校もなく、とりあえず合格した私立に入学した。今までより経費がかかるということで母は仕事を増やし、家で会うことも少なくなった。 母のいない食卓で食事をして茶碗を洗っていると、食器戸棚に入ったままの母の茶碗が目に入った。蛇口から流れる水の音がやけに大きく聞こえる。そういえば最近母の茶碗を洗っていない…。 母の存在が自分からだんだん薄れてゆくようで、訳もなく不安な気持ちになってしまった。 ある朝、目覚ましに起こされ眠い目をこすりながらリビングに行くと、母がソファーで寝ていた。久々に母の寝顔を見た。 「こんなところで寝ていたら疲れがとれんよ。ちゃんと布団で寝らんね。」心配になって声をかけると、 「ちゃんとあんたが学校に行きよるかなあと思って。行きよるならよかった。」久し振りに母の優しさに触れた瞬間だった。 「ちゃんと行ってるよ!」と口ではぶっきらぼうに言いながら、私は母に話しかけた。学校であったこと、帰り道での出来事、友だちのこと、自分の思っていること、色々話し続けた。話が途切れなかった。楽しかった。 登校の時間になったので、仕方なく私は制服を着て玄関のドアを開けた。 「行ってらっしゃい!」 勢いよく風が吹いてまるで背中を押されたような気がした。 私にはまだはっきりとした自分の未来が見えない。けれど母に迷惑をかけるのだけは避けたい、そしてできれば母を心から喜ばせたい。そのためにどんな生き方をすべきなのか、今日も私は未来を探しにドアを開ける。
「最近、母の茶碗を洗っていない」という書き出しが面白かったです。それに続く、「私の日常から母がだんだんいなくなっていくようで」で、引き込まれていきました。方言も効果的に使われていて、親子で助け合いながら大らかに生きている様子が読者の眼前に広がります。お母さんが作者のことをどんなに心配しているかが伝わってきて、その思いを作者がきちんと受け止めている点がいいと思います。そんな、作者の気持ちがイキイキと伝わってくるこの作品の魅力を強く推す審査員がいて、審査員特別賞に選ばれました。