去年の夏の日。切符売り場で財布を取り出したときことだった。 私の後ろでカツン、カツンという不規則な音がした。振り返ってみるとそこには白い杖をついた、おじいさんがいた。おじいさんは点字を読みながら、私の隣で切符を買っていた。 大丈夫かな。私は横で、おじいさんを見守っていた。本当は、声をかければよかったのかもしれない。でもその時の私は恥ずかしくて、そうすることができなかった。 結局何もできないまま、おじいさんは去っていった。声をかけるのをためらったはずなのに、なぜか何もできなかった自分の方が恥ずかしいことに気がついた。 私も切符を買って、駅のホームへと向かおうとした。そのときだった。私の目に、おじいさんの財布が飛び込んできた。 「これ、さっきのおじいちゃんの」私は財布を掴んで走り出し、おじいさんに話しかけた。 「あの、財布忘れてませんか。」 急いだせいで、上手く話せていなかったかもしれない。するとおじいさんは驚いた顔をして「すみません、ありがとうございます。」と言ってくれた。 私が財布を渡すと、おじいさんは財布から何かを取り出して指で撫でた。 「すみませんね、お金よりも、わしはこっちのが大切なんじゃ。」 おじいさんが取り出したのは、一枚の写真だった。そこには、おじいさんと何人かの子供達、そしておばあさんが写っていた。 目が見えないのに写真? 私は正直そう思った。それでも写真を撫でるおじいさんの顔はとても優しくて、少しだけ泣きそうに見えた。 「今は離れて暮らしとるけど、大切な家族なんじゃよ。無くさんで、よかったよかった。ありがとうな。」 「ありがとう。」それだけの言葉が嬉しかった。そして、ほんの少しだけ自分が誇らしく思えた。おじいさんの思い出を守る手伝いができた気がした。勇気を出してよかったと、今では心からそう思える。 同じ夏が巡ってくる今年、どこかで会えたら。あの優しそうなおじいさんに、私の方からもありがとうを伝えたい。
財布の中に入っていた「写真」がとても効果的に使われています。「財布から何かを取り出して指で撫でた」という表現にリアリティが感じられて、その時の情景が目の前に浮かんできます。「写真に写っているおばあさんや子どもたちがどんなポーズで、どんな表情をしているんだろう?」と、想像がふくらんでいく作品です。内容が多く、表現するのが難しい題材ですが、短い文章量でよくまとめられていると思います。