医療ツーリズムと「洋々医館」

地域医療充実の先駆者たち

 愛知県碧南市大浜にある碧南市藤井達吉現代美術館では「碧南の医人展」が3月5日まで開催されています。1872年(明治5年)から1980年(昭和55年)まで碧南市鷲塚に存在した「洋々堂」(のちに「洋々医館」)とよばれる医療機関が紹介されています。鷲塚は矢作川河口の港町であり、寺町の性格を持つ場所でもあります。西尾・岡崎・刈谷などの都市から少し離れた鷲塚の診療所では最先端の医療が行われていました。

 その先駆者は近藤坦平でした。幕末に江戸や長崎で医学を学んだ坦平は、地域医療充実の必要性を感じ、28歳の時に私設の医学校「蜜蜂義塾」と「洋々堂」を同時に設立しました。当時の「蜜蜂義塾」は、東海地方で唯一の西洋式医学塾といわれ、愛知医学校(現在の名古屋大学医学部)が軌道に乗るまでの10年間、医学生の育成にあたりました。

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 坦平は、東京帝国大学医科大学出身の次繁(旧姓鶴見)を娘おきての婿養子に迎え入れ、最先端医療の技術修得のため、次繁をヨーロッパに留学させました。坦平は「洋々堂」の名を「洋々医館」と変更し、地域医療の継承を帰国後の次繁に託そうとしたと考えられています。しかし、次繁は帰国後、東京帝国大学に呼ばれ、東京に戻ることになりました。近藤次繁は野口英世の左手の再手術や、日本最初の胃がんの外科手術を執刀したことで知られています。

 1912年(明治45年)、坦平の三男乾郎が「洋々医館」の館長をつとめましたが、乾郎もまた自らが学んだ東京に戻ることになりました。そのため東京から「洋々医館」に医師が派遣され、鷲塚での最先端治療は維持されました。のちに派遣の医師は名古屋からの医師に変わりましたが、他地域の医師たちが鷲塚の地域医療の充実に貢献したのです。

 「洋々医館」の評判は各地に広がり、多くの患者が訪れました。来院のための宿泊施設もつくられました。鷲塚は「洋々医館」の町として大いに賑わいました。ゆったりとした矢作川の流れ、蓮如ゆかりの寺院群、開発された田園風景と油が淵の湖沼が訪れた人たちの心を癒やしたことでしょう。

 現在、新しい観光の形として医療ツーリズムが注目を浴びています。その原点を温泉地の温浴療法やサナトリウムの転置療養などに求めますが、地域医療の充実を目指し、西洋医学に基づく高度な医療を提供してきたという意味では、「洋々医館」のような医療機関が先駆的な役割を果たしたといえます。

 近藤坦平をはじめとする近藤家の人々と最先端の医療技術を持つ東京などの医師たちが鷲塚の地域医療の充実に力を注ぎ、百年にわたり「洋々堂」「洋々医館」を支え続け、医療ツーリズムにつながる歴史を創り出しました。ふだん脚光を浴びる事柄ではありませんが、地域に残された大切な歴史の一つです。