JAM SESSION
STAGE 6

●下垣
 そう. 実はケルンにいるときにドミンゴのコンサートに行ったことがあるのだけれど, これがひどいものだったの. ドミンゴ, ドミンゴといいながら, 彼が歌うのはほんの 15 分くらいで, あとはみんなへたくそで私のほうが上手い, というような人が歌うわけ. 人寄せの金稼ぎみたいでドミンゴには悪いイメージがあったんです. でもせっかくだからと九州までコンサートを聞きに行ったら, ホテルの廊下を向こうからドミンゴが歩いてきた. あ, ドミンゴだ, と思ったら, つい 「ケルンのコンサート最低だったわ」 とドイツ語で話しかけちゃったのよ. そしたら彼は目を白黒させて, なんで極東にきて, 黒髪の女にスペイン人のぼくがドイツ語で話しかけられなければいけないんだと, 驚いて 「君は一体なにしているの」 と聞くから, 私は 「今日は, あなたのコンサート聞きにきたけど, ドイツで云々…」 と話したら, 「面白いね」 といって, 翌日 30 分くらい時間があるからちょっとお話しない? ということになったの. これがそのときの写真,

●佐々木
 わ, すごく接近している.

●下垣
 そのとき彼がすばらしいこといったのね, 「喉の調子がわるいから歌をなかなか歌うチャンスがない」, といったら, 彼が 「まったく歌う機会がないわけでもなく, 声がまったくでないわけではないだろ. 歌は, 神様からいただいた大切なプレゼントなんだ. 歌は自分が歌うんではなくて, 歌わせてもらっているんだ. だから, 声がある限り, 感謝して歌い続けなさい. あなたは歌わせて頂いているのだよ.」 というわけ. この言葉にはっとして, やはり自分は歌を大切にしていこう, と思ったの.

●佐々木
 素敵な人との偶然な出会い, それを全部自分のエネルギーにしちゃう. それが下垣さんの魅力の源の一つなのね. 納得しました.

●下垣
 そうかな? それからまた歌を柱にして, 一人オペラ 「女は素敵」 というのをやって, 演じる楽しさを知ったり, トークコンサートをやったりしました. でも本当に自分の柱は“歌”ときめたのは父の死後ですね. それまでは, 友人のだんなさんが会計士で, 広範な私の仕事を知って法人にしたほうがいいと会社をつくってくれて, 私が代表取締役で社員も 2 人いて, いろんな企画もやってかなり忙しかったんです. たまたまその 2 人も事情で辞めたこともあり, 自分ひとりなら何とかやれるということで, 歌を中心にきちんとやって行こうと決めました.

●佐々木
 最初にお会いしたときは, その社員の方を引き連れていらっしゃいましたよね. でも, 何はともあれ, 一人でやっていくって凄く大変なことだと思うなあ. 尊敬します.

●下垣
 佐々木さんもそうじゃない?

●佐々木
 研究者という意味では一人だけれど, 大学に勤めているという意味ではサラリーマンだから全然違う. ずっと楽ですよ.

●下垣
 サラリーマンといったって, 言うことは全然違うじゃない. 佐々木さん会議でも時々爆弾落とすから面白いよね.

●佐々木
 別にそういうつもりで言っているわけじゃないけれど, そう聞こえるみたい. この前も土木学会のデザイン関係のシンポジウムで, デザインの美しさを説明するのが難しい, というような話題になったときに, 「美とは云々という前に, 美意識も持ってないやつが仕事するからろくなものしかできないんだ. その心意気が問題だ」, っていったら, 会場がシーンとしちゃって, 一人だけおじさんが拍手してくれたの.

●下垣
 ホント, それにつきるよね. そのとおり. 日本人はなんでも言葉や理屈で説明しようとするけれど, 自分の感性の柱があってこそのはなしだよね. よく言った (拍手) !




■ 音楽とテクノロジー ■

●佐々木
 感性という話になると, 音楽では, 私はクラッシクはほとんどきかないから肩身がせまいな.

●下垣
 確か, 忌野清志郎が好きだったわよね.

●佐々木
 よく覚えてますね. ステキでしょ?

●下垣
 ???

●佐々木
 それはともかく, 今日お伺いしたいなと思っていたことの一つに, 音楽とコンピュータの関係について, どう思っていらっしゃるか, ということがあります. いまでは, 自分で楽器が弾けなくても歌が歌えなくてもコンピュータで音楽を作ったり演奏したりできるようになりましたよね. 私は軽音楽のサークルの顧問をやっているのですけれど, その中の学生でもコンピュータで結構かっこいい音楽をつくって, しかも映像を作る学生と組んでそれっぽいものをプレゼンテーションしたりしています. 当然いまではすぐ自分の CD もつくれるでしょう? そういった様子を見ていると, テクノロジーが本当に身近で手軽になっていることを実感するわけです. そうした道具が無ければ, 音楽なんてやらなかった子ども達もたくさんいるのではないか. その点でテクノロジー, 特にコンピュータテクノロジーは, 音楽や絵画などの芸術をぐっと身近にしたんではないか, と思うわけです.

●下垣
 確かに, 芸術に参加できる間口を広げたという点では, すばらしいと思います. しかし, 簡単に手にはいったものは輝きも失せやすい, ということもあります. 表面的には漫画でハッとすることもあるけれど, ゴッホの絵と漫画では違うでしょう? 同じ絵ではあるけれどぜんぜん違う, そういう点で私はコンピュータに対しては, ある一線を引いているところがあります.

●佐々木
 下垣さんの出された CD 「じゃぽねすく」 でも, 伴奏にはシンセサイザーをつかっていますよね.

●下垣
 そうです. シンセサイザーの可能性はとても大きいとおもうけれど, 「母さんの歌」 だけは, やはり生のピアノでないと雰囲気がでなくて, 生のピアノを使っています. 音楽に興味持ってしかも実際に自分がかなでるというのは, ヨーロッパでは昔は家族がお客様をおもてなしをするのに室内楽をするのが当たり前であった, ということからもわかるように, なにか自分が相手に伝える, 喜びを与える, という気持ちと一体となったものだと思うの. 何かを人に与えるというのはすばらしいこと, 歌は特に直接人に働きかけられるから, それを仕事にできることはとても幸せだと思います. 私が何故長いこと歌をやってきたかというと, 歌はやればやるほどどんどんむつかしくなっていって, ぜんぜん自分で納得できなくなっていくからなの. クラシック音楽には, 特にそれを創り出した人たちが生きてた時代の, 人間だけの力じゃなく, なにかそれを超えた祝福されたものを感じてしまうわけ. それと対極的なのは, 今のコマーシャリズムにのった音楽の作られ方で, 小室哲也の作る音楽は, 音楽をつくるプロセスがまるで違う. つまり, 音楽には始めに伝えたいこと, 詞があって, それを演奏するメロディーがあり, それを効果的にするための伴奏がある, という順に作られるのはずなのに, 彼の作り方は全く逆. 最初に統計学的に売れる伴奏やアレンジをコンピュータで作って, それに曲を載せ, 言葉は適当に最後につける. だから新しさははあっても深みもなにもないし, 大嫌い!

●佐々木
 私も, 歌詞に深みやレトリックがないその手の歌は聞くに堪えない. 少なくとも日本語の歌は, 詞であって欲しいと思います. 下垣さんが学生時代の演奏旅行で感じたという, 音楽とそれが生まれた社会や演奏される空間との一体性, という点でいうと, 今の情報化社会, グローバリゼーションの世界のなかで, 音楽だけがその背景と切り離されてどんどん一人歩きしていくことについては, どう考えられますか?

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