JAM SESSION
STAGE 1

「技術=環境」の時代の情報学
<松尾>
ともかく, 20 世紀後半の特徴は科学の専門分化, 細分化を進めていったことにあり, そのおかげでこれだけの高度技術社会が実現しました. ところが今ふと立ち止まってみればそこには調和とか総合というコンセプトが欠如しています. 「発展」 のパラドックスとして環境エネルギー問題や人間性の喪失, 感動の喪失などが生まれてしまったわけだから, ここで踏みとどまって, もっと人間性のある, 調和の保たれた総合的テクノロジーにしていかないと 21 世紀はとてももちません. 本来は 「技術=道具」 にすぎなかったのだけれども, 今の人間は好む好まざるにかかわらず, 技術の作り出した社会で生きていかなければならなくなってしまった. つまり今は 「技術=環境」 になってしまった. その面でも, 生活の仕方一般という意味での文化とバランスがとれるような技術社会に軌道修正しなければならないわけです. また, ディシプリンという言葉を学術の分野で使いますが, 今はディシプリンもないのに 「情報」 という看板を掲げた分野があふれています. コンピュータのハードのことを教えていているだけでは学問としてのディシプリンにはならないということを, 情報をやっている人にわきまえてほしいですね. あるいは環境もしかりです. しかし逆に土木とか工学とかいったディシプリンがはっきりしている分野から抜け出せない人も批判されないといけません. 常に新しいディシプリンを目指し, 新しい学問の体系を作り出していくことが理想でしょう.
<佐々木>
例えば私が関わる建築, 土木の分野で技術を考える際に, レンガを一つずつ積み上げるといった非常にシンプルなローテクノロジーから, 明石海峡大橋を架けるようなハイテクノロジーまで, とても幅があるわけですが, 社会の技術的な豊かさとは, 社会が所有する技術の最高点で計るのではなく, 高度なテクノロジーとシンプルなテクノロジーの幅が広いことが重要ではないか, と考えています. これは情報の技術についてもいえることかもしれません. 高度ではないが誰もが使いやすくシンプルで応用の効く安価な情報技術と, 非常に高度な情報技術. その両者が互いに役割分担して社会に行き渡るシステムが要ると思うのです. こういうシステムをもった社会を作るには, 各人が自分の価値観と責任で選択し, 行動しなければだめなわけで, 研究者だけではできません.

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一般市民の行動が大切です. そういう意味でも私は本学の学生に対して, 皆が何かのエキスパートになれるわけではないけれども, 全員がプロの市民にはなってほしい, と訴えています.
<松尾>
今は技術の更新というの名のもとに, ハード的にはまだまだ十分機能するものでも無理に廃棄して新しいものに換えさせてしまう傾向がありますね. たとえば, 昨今の電話機にはあまりにも普段使わないような機能がいっぱい付いていて逆に使いづらい. その人の年代, 職業, 興味によって必要な, 好ましい情報や技術があるはずだから, 何でも一律に高度化に向かって新しいものを提供しなくてもよいわけです. 人にも色々好き嫌い, 人生観があって, 福祉問題にしてもマクロな視点から政策にまで発信できるプロを目指す人もいれば, 直接的な介護に生きがいを見出す人もいる. 大学も, 学生に基礎的部分は一通り修得してもらう必要があるものの, それに加えて彼らを個性的に育てていけるプログラムを用意すべきでしょう.
<佐々木>
学生の中には提示した課題に対するレポートに, 「いまさらボクの様な者が何か書いたって…」 とネガティブな書き方をする人もかなりいます. 偏差値教育の弊害がしみついているのを感じますね.
<松尾>
現代の日本の入試や評価方法は間違っています. なんとかしなければなりません. 本当の天才は世界中で 100 年に一人くらいしかでてこないわけで, あとは皆普通の人なんです. ドイツではマイスターと呼ばれる人が誇りをもってお菓子や靴を作っている. いまの日本のように大蔵省の役人が威張っているという社会はおかしい. しかし現実のデータとしては, いわゆる高度な教育を受けた人の方が生涯所得が高いという構造になっています. とても難しい問題ですが, 何とか変えていかなければならないし, それは一大学だけではできない問題で, 私もあちこちで発言していきたいと思っていますし, また日本福祉大学にも期待しています.
<佐々木>
今日は大変刺激的なお話をたくさんお聞かせいただきまして, どうも有り難うございました.

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