知多半島の文学碑
江戸時代、尾張藩の要地として栄えた東海市尾張横須賀では、俳壇が成立
し多くの人々が俳諧を嗜みました。全国的にも活躍した俳人・暁台が一時期
ここに住んでいたことも影響しています。
色かへぬ風のしらべや松みどり (方間舎楓京) (東海市横須賀町三の割大教院) |
![]() 「八公石」と刻まれた大教院の碑。楓京の句は、この側面に刻まれているが、柵がはりめぐらされ、確認できない。
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浦の梅花かたつらにさきにけり (暮雨巷暁台)
(南知多町山海西方寺) |
![]() ![]() 暁台句碑。苔むして判読困難。 碑の横には知多四国の巡礼の読経姿。
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栗の穂に入まねかせん狐塚 (暮雨巷三世 村瀬帯梅) (東海市愛宕神社境内) |
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戦前の知多半島では、和歌も盛んだったようです。知多半島には御歌所(宮内
省にあった部署)に属した歌人の歌碑もあります。
萬代もかはらぬかけを亀崎の なみにうかべて月てりにけり (黒田清綱)
(半田市亀崎町 神前神社裏亀崎城址) |
![]() 亀崎城址の藪に隠れている歌碑。 |
これは大正天皇即位の大嘗会で披露された、祝いの歌です。
亀崎は月見の名所でもありました。 |
うめのはなさきくとさとのゆくすゑを おもひのいろにつきかへにけむ(坂 正臣) (知多市 佐布里ダム記念館庭) |
![]() 梅木に囲まれて建つ歌碑。 |
坂正臣は、東海市出身の歌人。歌や書に長け、皇族子弟の指導にもあたりました。これは、「梅の花とこの里を、よくぞ思った色に変えたものだ」と、薄紅の「佐布里梅」を生み出した翁の功労を詠んだ歌。 |