#43 パラスポーツの可能性
障害のある人に
「輝ける場所」があることを
伝えていきたい。
パラスポーツ・男子やり投げ(トヨタ自動車所属)
(2021年3月 日本福祉大学経済学部経済学科卒業)
高橋峻也
幼い頃、病気の影響から右腕に障害が残った高橋さん。高校野球選手として甲子園の土を踏んだ後、日本福祉大学の陸上競技へ。2022年日本記録を樹立し、パリ2024パラリンピック競技大会に出場し、陸上競技男子やり投げ(F46)で6位入賞を果たしました。高橋さんにパラスポーツの魅力や可能性について話を聞きました。
社会課題
パラスポーツと共生社会。
パラスポーツ(障害者スポーツ)は、障害のある人がスポーツ活動を楽しめるように、障害の種類や程度に合わせてルールや用具などを工夫したスポーツを指します。日本は海外に比べて普及が遅れていますが、東京2020パラリンピック競技大会を機に徐々に関心が高まりつつあります。
パラスポーツは、障害者のためだけのスポーツという印象が強いですが、実は障害のある人もない人も一緒に楽しめるところが大きな魅力です。たとえば、パラリンピックの正式種目である「ボッチャ」は障害のある人もない人も一緒に楽しめるインクルーシブなスポーツです。このように、多様性や創意工夫に満ちたパラリンピックスポーツの価値や、無限の可能性を体現するパラアスリートの魅力を通して世の中の人に気づきを与え、より良い社会を作るための社会変革を起こそうとする活動を「パラリンピックムーブメント」ともいいます。どんな人でもパラスポーツを楽しんだり、観戦することによって、障害特性も含めた多様性を受け入れる文化を醸成するきっかけになります。パラスポーツの普及を通じて、共生社会(さまざまな人々が分け隔てなく暮らしていくことのできる社会)の実現に近づくことが期待されています。
参考:日本パラリンピック委員会ウェブサイトほか
INTERVIEW
野球に明け暮れていた少年時代。
最初に、高橋さんの障害についてお伺いしてもいいですか。
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高橋
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私は3歳の頃、脊髄炎という病気にかかり、最初は右半身全体が麻痺していましたが、奇跡的に腕以外は回復して、右上肢機能障害になりました。その障害を意識するようになったのは、小学校に上がる頃だったと思います。走るときも自分だけ右腕を振れない。なんで自分は周りの人と違うんだろうと戸惑うようになりました。その後、手術とリハビリの成果で、握力は少しずつ回復していきました。
野球と出会ったのはどのようなきっかけからですか。
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高橋
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父親が少年野球チームの監督をしていて、小学校2年生のときに野球観戦に連れられて行ったのが最初の出会いです。父親はいろいろ調べてくれて、当時、ジム・アボットというメジャーリーガーが先天性右手欠損というハンディキャップを抱えながらプレーしていたことから、片腕でどう野球をしていくか熱心に説明してくれました。両親からすると、「野球をやってみろ」というよりも、スポーツの道を閉ざしたくないという思いが強かったようです。それで、軽い気持ちで少年野球チームに入ったのですが、中学3年生までは、父親にやらされている感じが強くて、自分から練習しようという気持ちはあまりなかったですね。
そんな高橋さんが甲子園まで行かれたのはどのような変化があったのでしょう。
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高橋
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高校で野球の強豪校に入学し、大きく変わりました。もともとスポーツが得意だったので中学まではそれほど努力しなくてもよかったんですが、高校はすごくレベルが高く、頑張らないと練習にもついていけない。そこで初めて、「甲子園で優勝したい」という目標が生まれ、必死に打ち込むようになりました。朝6時に学校に行って練習し、授業の後も練習して終電で帰るような生活でした。実際に甲子園に行くことができ、私自身は試合には出ませんでしたがメンバーの一人として、甲子園で1勝できて、すごく達成感がありました。自分は障害がありましたが、チームの仲間は自分のことを一人のライバルとして見てくれたことも恵まれた環境でした。
甲子園球児から、やり投げの選手へ。
そこから、パラスポーツに転向したのはどのような経緯からですか。
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高橋
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私のことをテレビ番組などで知った、日本福祉大学の陸上部監督の三井利仁先生から高校に電話をいただきました。三井先生は日本福祉大学のスポーツ科学部の開設準備に関わっていて、オリンピックとパラリンピックの両方の選手を輩出したいという思いを持ち、声をかけてくれました。それまで私はパラスポーツやパラリンピックの存在を全く知りませんでした。でも、甲子園の後で次の目標が全く見えないときだったので、すぐに「やってみたい」と思いました。不安もありましたが、両親が「行ってこい」と背中を押してくれました。
やり投げを選んだのはどうしてですか。
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高橋
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三井先生が100メートルかやり投げがいいのではないかと勧めてくださって、自分は肩の強さに自信があったのでやり投げを選びました。でも、やってみると、野球の投げ方とは全く技術的に違う競技でした。一番違うのはリリースポイントで、野球は目の見えるところでリリースするイメージですが、やりは耳の後ろでリリースします。腕の振り方も使う筋肉も違うし、柔軟性も重要で、大学1、2年生の頃は独学でやっていて、肘をけがしたり、練習にも身が入りませんでした。
そこからどのように練習していったのですか。
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高橋
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大学3年生のとき、三井先生の紹介で久保浩司コーチに出会い、陸上の練習方法や肘に負担のかからない投げ方をしっかり教えていただいて、一気に練習が楽しくなりました。やり投げは野球と違って努力が記録でわかります。技術的な練習がすごく大切なので、地道に取り組むようになり、日本記録も樹立できました。ただ、学生時代の間には、コロナ禍で開催予定の試合が延期されたり、満足のいく練習のできない時期もありました。本当は、日本福祉大学の4年生としてパラリンピックに出場するのが目標で、僕の成長を支えてくれたコーチや監督、仲間たちに恩返ししたいと考えていましたが、それは実現しませんでした。
海外遠征で感じたパラスポーツへのリスペクト。
その後、パリ2024パラリンピック競技大会に出場され、それ以外でも海外の国々でたくさん活躍されていますね。
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高橋
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そうですね。フランスをはじめ、ヨーロッパやアジアの大会に参加させていただいています。海外で感じるのは、お客さんの熱い応援です。海外の方は障害者アスリートにリスペクトをもっていて、健常者と同じように歓声を上げてくれたりします。日本では障害者アスリートというと、「障害をもちながらスポーツしてすごいですね」という目で見られることが多いのですが、海外では「限界に挑戦する一人のアスリート」として見てくださる。そこが大きな違いだと思います。
日本でも最近はパラスポーツへの認知度がぐんと上がってきたような気がします。
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高橋
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確かにそうですね。やはり一番大きな影響を与えたのは、東京2020パラリンピック競技大会の開催だと思います。そこで、パラスポーツの認知度も上がり、パラ選手を支援する企業が増えたりして、非常にありがたく感じています。僕自身もトヨタに入社させていただき、練習に専念できる環境を得ることができました。
今はどんな練習に取り組んでいらっしゃいますか。
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高橋
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基礎トレーニングも含めて、週5、週6で練習に取り組んでいます。やり投げは投擲競技で唯一、助走のある競技で、助走の良しあしがタイムに直結します。なので、スピードトレーニングやジャンプトレーニング、短い距離をひたすら走る練習などをしています。フォームもまだまだなので、力を分散させず、まっすぐ棒に力を加えて、風の抵抗を受けずにスムーズに投げる練習に力を入れています。
パラスポーツの普及に貢献していきたい。
今後の目標をお聞かせいただけますか。
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高橋
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基本的に投擲選手の自己ベストのピークは、28〜32歳くらいだといわれています。僕は今、26歳ですから、30歳のときにロサンゼルスのパラリンピック、34歳のときにオーストラリアのパラリンピック競技大会があります。その二つの大会をメインの目標にして取り組んでいこうと考えています。そして、引退後も積極的に障害者スポーツの普及に携わっていきたいですね。これから日本社会は共生社会の実現に向かっていこうとしています。そのとき、パラスポーツは大きな力になりますし、自分も鍵を握っている一人だと感じています。そのため、障害のある人々に自分のストーリーを伝えていきたいと思います。
パラスポーツを楽しむ人がもっと増えていけばいいですね。
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高橋
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はい。残念ながら障害者スポーツの競技人口は、それほど増えていません。僕も始めて6、7年になりますが、なかなか下の世代が出てこないと感じています。もしかしたら障害のある子どもの両親や周りの人が、スポーツの可能性にブレーキをかけている部分もあるのかもしれません。それは本当にもったいないことですし、スポーツをすることでこんなに「輝ける場所」があり、人生を変えられることを知ってほしいですね。
パラスポーツの普及のために、私たちができることはありますか。
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高橋
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やっぱり、僕たちの姿を、生で見ていただくことが一番じゃないかと思います。来年は愛知県で「アジアパラ競技大会」も開催される予定です。障害のある人たちが道具を使うなどして自分の障害をどう工夫してクリアしているのかを見て、迫力ある試合を楽しんでいただけたらと思います。
日本パラスポーツ協会のチャレンジ
日本パラスポーツ協会(JPSA)は、1964年の東京パラリンピックを契機に設立され、2025年に創立60周年を迎えました。これまで、「普及振興」と「競技力向上」を両輪に、教育現場での授業づくりや地域との連携、人材育成など、多角的な取り組みを進めてきました。
2026年には愛知・名古屋でアジアパラ競技大会が開催されます。60年の歩みを礎に、パラスポーツを通じて生まれる“体験”が人を動かし、社会を変えていく――その取り組みは、これからの社会を大きく動かす可能性を秘めています。

普及と競技力の両輪で、パラスポーツを「文化」に育てる。
日本パラスポーツ協会(JPSA)は、1964年の東京パラリンピックを契機に設立され、2025年に60周年を迎えました。日本におけるパラスポーツの統括団体として、大会運営、普及啓発、指導者育成、選手の国際大会派遣などを担い、内部組織として日本パラリンピック委員会(JPC)も設置されています。
JPSAが掲げる2030年ビジョンは「違いを認め合い、活力ある共生社会の実現」。このビジョンを支えているのが、「普及振興」と「競技力向上」という二つの柱です。裾野を広げ、山を高くすることで豊かな森を育てていく――その言葉に象徴されるように、JPSAはスポーツが持つ力を通じて、社会を豊かにしようとする姿勢が表れています。
パラスポーツには、「する」「見る」「支える」といった多様な関わり方があります。競技者は自己実現と社会参加の場であり、観戦者は先入観を変える感動と気づきの場として、そして支える人にとっては学びや行動変容のきっかけとして、それぞれに意味のある体験を得ることができます。JPSAでは、こうした体験の積み重ねこそが人を変え、人の変化が社会の変化へとつながると考えています。
教育と地域連携から、共生社会の芽を育てる。
障害者のスポーツ実施率が健常者に比べ低い現状を踏まえ、JPSAは特に子どもの頃の体験機会の不足を大きな課題と捉えています。「大人になってからでは始めにくい」。だからこそ、幼少期にパラスポーツに触れる環境づくりを重視しています。
教育現場では、国際パラリンピック委員会(IPC)公認教材『I’m POSSIBLE(アイムポッシブル)』の日本語版を活用し、全国の学校で共生社会について考える授業づくりを進めています。動画やワークシートを通じて、多様性や「平等と公正の違い」を子どもたちと共に考える機会をつくっています。
地域との連携では、全国障害者スポーツ大会や「ジャパン・ライジング・スタープロジェクト(J-STAR)」を通して、体力測定や競技体験から参加者と競技団体をつなげ、地域にパラスポーツの輪を広げています。また、パラスポーツ指導員やトレーナーなどの資格制度整備など、人材育成にも力を注いでいます。2025年にはパラリンピアンズ協会(PAJ)との連携により、ユース世代の育成やキャリア支援も予定されています。
JPSA・JPCは、東京2020パラリンピック競技大会の経験を踏まえ、「会場で直接見て、感じてもらうこと」を重視しています。2026年には、愛知・名古屋2026アジアパラ競技大会が開催されます。そして、その先にはロサンゼルス2028パラリンピック競技大会も控えています。パラスポーツがもたらす体験が人の意識を変え、その変化が社会を動かしていく――。教育・地域連携・人材育成の取り組みを通じたその挑戦は、共生社会の実現に向けて大きな力となっています。
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