ぱっちり目に桃色ほっぺ。赤ん坊の名は太郎。 私が彼に出会ったのは、熊本県の国立(ハンセン病)療養所菊池恵楓園に暮らすEさんの部屋だった。ハンセン病療養所では、らい予防法(一九九六年廃止)による絶対隔離政策のなかで、結婚の条件として、男性には断種を、女性には堕胎や人工妊娠中絶が強制された。Eさんもその犠牲者だ。 ある日、Eさんは、玩具店で見つけた愛くるしいセルロイドの人形に心を奪われた。それが太郎。服をつくり、わが子として愛した。Eさんが私に言った。「抱いてあげて」。私も思わず話しかけた。「こんにちは。おねえちゃんですよ」。 国は、母体保護のため、またその後の養育が困難などの理由で、ハンセン病者に子孫を残すことを禁じた。「妊娠七ヶ月でした。取り出された赤ん坊は真っ黒な髪の毛の女の子でした。手足をバタバタさせていましたが、看護婦が別室に連れて行きました。後に私は、ホルマリン標本にさせられていたわが子を見ました」。鹿児島県の星塚敬愛園に暮らす玉城しげさんの証言だ。あまりに惨い。人間のすることではない。殺人だ、と私は思う。このような事例は、全国の療養所で行われており、入所者らの訴えに国は謝罪し、今では各園に供養碑が建つ。 狂気がそれをさせたのか。いや、異常が通常だった。普通の看護婦が普通にやったのだ。であるなら、看護婦は、私だったかもしれない。 ハンセン病国家賠償請求訴訟弁護団の徳田靖之さんはこう指摘する。「自分は救う側、患者は〝かわいそう〞で救われる側という固定観念にこそ、差別性が潜む。〝救う〞意識が強いほど、その人のためによかれと思ってやっている自分が〝正しい〞と思いこんでいる。特に、絶対隔離政策という大きな枠内では、立場の逆転はなく、重大な過ちが見過ごされていた」。あなたに起きることは私にも起きる。 どんな人にも対等に、そして平等に。単純だが、最も大切なこと。私にできているか。太郎が問う。
むごい過去の出来事を避けるのではなく直視し、自分に引きつけて考え、「もしかしたら自分が差別する側になっていたのではないか」と問いかけている完成度の高い作品です。とても難しいテーマを取り上げながらも、自分の体験と意見、出会ったEさんの言葉、証言者の引用、弁護士の意見を多重的に組み合わせていくことで、説得力を高めています。ありふれた名前の「太郎」を題名に使っていることも、「おや?」と思わせ、この作品の印象度を高めることに成功しています。