最近、テレビやインターネットなどで「バーチャルな世界に没入する」という表現を耳にする機会が増えてきました。家電量販店やイベント会場などで、HeadMounted Display(HMD)というヘッドセットを装着して、バーチャルリアリティ(Virtual Reality:VR)の世界を体験されたことのある方もいらっしゃるかもしれません。また、実際に体験したことはなくても、「VRとはどのような世界なのだろう」と興味をお持ちの方も少なくないと思います。
近年、私たちがVRに触れる機会が増えてきた背景には、一般家庭でも購入しやすい価格帯のヘッドセットが普及してきたことがあります。ゲーム、観光、教育、医療、リハビリテーション、そしてスポーツのトレーニングなど、さまざまな場所でVRが活用されるようになってきています。
私はスポーツ心理学を専門としています。スポーツ心理学とは、運動やスポーツに関わる人間の行動などを科学的に明らかにしようとする学問分野です。たとえば、試合場面で緊張すると身体の動きはどのように変化するのか、熟練者はどのように対戦相手の動きを予測しているのか、運動スキルを効果的に身につけるにはどのような練習が有効なのか、イメージトレーニングを効果的に行うにはどうすればよいか、運動によって感情はどのように変化するかといった問いが研究対象となります。近年では、このスポーツ心理学の分野においても諸外国を中心にVRを用いた研究が盛んに行われるようになってきました。世界中の研究者が、VRを活用することで運動スキルの向上やメンタルトレーニングをより効果的に行う方法などを探求しています。私自身もその一人として、VRを活用しながら、心理的プレッシャーが知覚-運動スキルに及ぼす影響について研究を進めています。
VRを用いる意義のひとつは、実際の物理的な環境では構築することが難しい状況を、比較的容易に作り出せる点にあります。たとえば、競技会場、観客、対戦相手、試合特有の緊張感などを物理的な環境で再現しようとすると、極めて多くの時間、場所、人、金銭的コストが必要になります。しかしVRであれば、小さな部屋の中にいながら、あたかも試合会場にいるかのような環境を体験することができます。また、自分が練習したい時に、比較的低いコストで繰り返し練習できることも大きな利点です。場所、時間、金銭的コストの面で、VRは運動・スポーツの練習環境を大きく広げる可能性を有しています。
VRには、危険を伴う状況を安全に体験できるという利点もあります。たとえば、レーシングドライバーの運転トレーニングを物理的環境で行う場合、事故や怪我のリスクを完全に避けることはできません。しかしVR上であれば、危険な場面を再現しながらも、実際の身体的なリスクを抑えた形でトレーニングを行うことが可能になります。また、物理的に準備が難しい環境、たとえば特定の天候や照明の条件なども、VRでは比較的柔軟に設定することができます。
さらに、VRは健康増進の観点からも注目されています。近年では、VRリズムゲームやVRフィットネスアプリなど、楽しみながら身体を動かすことのできる商用アプリが数多く登場しています。運動を継続するためには、「楽しさ」を感じることが重要ですが、VRを活用したエクササイズでは楽しさが高まりやすく、運動の継続性を高める可能性が指摘されています。現在、私の研究室では、卒業研究の一環として、商用のVRリズムゲームアプリを使って、課題の難易度と自己効力感との関係性について調べています。自己効力感とは、簡単に言えば、自分がこの課題を達成できそうだと感じる見込みのことで、運動やスポーツを継続する上で、この自己効力感は重要な心理的要因であると考えられています。
一方で、VRには多くの利点があるものの、VRの世界と物理的な世界とで私たちの振る舞いはまったく同じなのでしょうか。この点はVRを研究や応用に活用する上で、重要な問いとなります。結論から言えば、VR環境と物理的環境での私たちの振る舞いには違いがあります。私たちの研究グループでは、スポーツや日常生活の様々な運動に共通する「目標に向かって手を伸ばす運動」の特徴を、VR環境と物理的環境で比較しました。その結果、物理的環境と比べて、VR環境では運動がやや遅くなることが確認されました。このようなVR環境での動きの遅延は、私たちの研究だけでなく、他の研究グループによる報告でも示されています。また、VR環境では身体の動きが大きく、誇張されたような動きになりやすいことも指摘されています。これらの知見は、VRが物理的な世界を完全に代替するものではないことを示唆しています。
では、なぜVR環境と物理的環境では行動が変わるのでしょうか。その要因のひとつとして、VRではヘッドセットを装着し、目のすぐ近くにあるレンズを通して映像を見ることが挙げられます。私たちが物理的環境で物を見るときには、両眼の輻輳と水晶体の調節をうまく連動させていますが、ヘッドセットを通してVR映像を見る場合には、両眼の輻輳と水晶体の調節との関係が物理的環境とは異なり、物を見る際の視覚メカニズムが変化してしまう可能性が指摘されています。また、VR環境では、物理的環境に比べて触覚情報が乏しくなりやすいことも重要な点です。これらの要因によって、VR環境では運動に関わる神経メカニズムが物理的環境とは異なることとなり、その結果として、行動にも変化が生じると考えられています。
さらにVRを使用する際には、サイバー酔いにも注意が必要です。これはVR映像を見ている際に生じる不快感や吐き気などのことです。すべての人に生じるわけではありませんが、VRを活用する際にはこうしたリスクを十分に考慮しておくことが求められます。
このように、VRは運動やスポーツに大きな可能性をもたらすツールである一方で、留意すべき点もいくつかあります。大切なことは、VRを「現実の完全な代わり」として捉えるのではなく、VRならではの利点と限界を理解した上で活用することだと考えています。今後、VRは人工知能(AI)との組み合わせによって、さらに発展していくと考えられています。AIによって、個人のスキルレベル、心理状態、練習履歴などに基づく、その人に合ったトレーニング環境が構築・調整されていくことが予想されます。
最後になりますが、本稿の内容について、より詳しくお知りになりたい方がおられましたら、僭越ながら下記の論文をご一読いただけますと幸いです。
関連リンク
J-STAGE「スポーツ心理学におけるVR研究の動向と今後の展望」
山本真史・荒木雅信スポーツ心理学研究(早期公開)
- ※2026年8月15日発行 日本福祉大学同窓会会報137号より転載