名称 |
宗良親王の歌碑 |
所在地 |
南知多町 師崎 幡豆岬 待合浦 |
区分 |
歌碑 |
詠者 |
宗良親王 |
揮毫者 |
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建立者 |
青木新九郎(野口翁遺嘱) |
創立年月日 |
大正3年8月 |
高さ |
200cm |
幅 |
110cm |
材質 |
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碑文 |
山路よりけふはいそへのさとにきてうらめつらしきたひころもかな |
意味・出典 |
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由来 |
この歌碑は、尾張藩の師崎地頭、千賀家の家臣であった野口所左衛門(1835-1910)が、師崎出身の成功者・青木新九郎に託して建立されたものである。 後醍醐天皇の王子・宗良(むねなが)親王は、東国の足利勢追討のため、延元三年、北畠親房らと海路伊勢を出軍。途中暴風に遭い、遠州に漂着し、以後、30有余年にわたって各地を転戦した。そして、親王の事歴をまとめた『信濃宮伝』によれば、この間に、信濃から尾張犬山を経て知多路に入り師崎の羽豆城に立ち寄り、伊勢から吉野に帰っている。 この歌は、親王の歌集である「李花集」の詞書では、「なるみの浦」で詠んだことになっている。しかし、野口翁は、当時、足利氏の勢力が強かったため羽豆城主に迷惑がかかるのを恐れ、鳴海でよんだかのごとくにしたものであるとの説を唱え、このことを後世に伝えたいと念願し、青木によって歌碑建立が実現したのである。 |
参考文献 |
愛知の文学碑P45 全国文学碑総覧P566 市誌・町史P921 |
備考 |
野口翁は、師崎の名士、野口所左衛門(1835−1910) |
交通 |