このページのメインコンテンツへ移動

お知らせ

お知らせ

和太鼓部楽鼓 東北被災地交流演奏2016レポート

2017年1月20日 NEWS

 本校和太鼓部が2016年8月16日から18日までの2泊3日で、東日本大震災被災地にて交流演奏を行いました。
 5年前と3年前には石巻牡鹿半島に、2年前には福島県山木屋地区に訪問をして、和太鼓の演奏をし、交流を深めてきました。今回も、その石巻と福島の2か所を巡ります。
 東日本大震災から5年が経過し、被災地の仮設住宅も今年が区切りの年になっています。「仮説住宅での演奏も最後になるかもしれない」そんな思いをもって、和太鼓部楽鼓のメンバーは東北へ向かいました。

福島県川俣町山木地区(2016年8月16日)

 8月16日、愛知県を出発し、2年ぶりに福島県川俣町山木屋地区の仮設住宅へ到着しました。
 福島県川俣町山木屋地区は、福島第1原発事故により、ふるさとが帰還困難地域に設定された地区。 「ふるさとに帰りたくても帰れないまま」約5年間、住民が仮設住宅に住んでいる地域です。

事前に配布をお願いしていたチラシやポスターが目に入ります。

演奏開始の30分前には、すでに住民のみなさんが、仮設のベンチや縁側に座って演奏開始を待って下さっています。

熱中症にならないようにと、和太鼓部楽鼓のメンバーがお茶を配って回ります。

台風が迫り、蒸し暑い空気と強い日差しが照り付ける中、和太鼓部楽鼓の演奏が始まりました。

1曲目は「楽」、2曲目は「おまつり太鼓」と、楽鼓の元気な演奏が、住民のみなさんの笑顔につながります。

そして、3曲目。
山木屋地区の仮設住宅での演奏3曲目は、楽鼓のメンバーが、ここで演奏することにこだわっていた曲。
「絆~和太鼓組曲『海嶺』より~」でした。
この曲の物語にある「ふるさとに帰りたくても帰れない」という思いに、楽鼓のメンバーは山木屋地区の人達の思いを重ねようと演奏しました。
そのことに、特にこだわったのは、2年前に、当時1年生で、この仮設住宅で演奏した3年生のメンバーでした。
1曲目2曲目とは違う世界を、創り出すこの曲に、仮設住宅の観客のみなさんの表情が変わるのがわかりました。

3曲目「絆~和太鼓組曲『海嶺』より~」が終わり、みなさんに挨拶。

握手をしながらお礼を言う楽鼓メンバー。
握った手をなかなか離して頂けない。

「よかったよ。涙がとまらないよ」
「今度はいつ来てきれるの」

「来年も来てくれるのかね」
来年には、この仮設住宅はない。仮設住宅は原則5年間らしい。
複雑な思いになった。
山木屋地区には「山木屋太鼓」がある。海外でも演奏経験がある。
2年前は楽鼓とも共演した。
山木屋太鼓は、この地区の住民の誇りで自慢の太鼓。
話し出すと止まらない。
太鼓が避難生活を強いられている地区の住民をつなげている。
「でも、あんた達の太鼓は、聞いた事もない音」
「本当によかった。もう1回聞きたいよ」

仮設住宅での演奏を終えた和太鼓部楽鼓のメンバーは、山木屋地区の自治会長さんの案内のもと、現在はまだ帰宅困難地区になっている山木屋地区をバスで案内して頂きました。3月には帰宅困難地区解除になる地域ですが、地区内にはこの5年間で除染された土などが、何重にもビニール袋にくるまれたまま置かれたままの状態でした。地区内の店は、ほとんどの閉店のまま。なかには、避難した5年前のままの民家もありました。
山木屋地区内の道路をまっすぐ進むと隣の浪江町につながりますが、ここから先は、浪江町の住民及び、許可者以外立ち入り禁止とのこと。ここまで見学して、Uターンをして仮設住宅に戻りました。 雨上がりで、偶然、柵の向こうに虹が見えました。

仮説住宅の集会所に戻り、川俣町役場の方からお話を伺いました。
現在の川俣町の取り組みや、現状。これからのことについて、資料も交え、詳しくお話を伺いました。
「問題を解決するためには、あきらめずに、とにかく何度も足を運ぶことしかありませんでした」
「最後に必要なのは、コミュニケーションの力でした」
被災地の現状を学びに来た和太鼓部楽鼓のメンバーでしたが、和太鼓部が乗り越えないといけない課題とも重なり合うことに気づきました。

この方は、愛知県から川俣町役場に来られた方でもあったため、楽鼓メンバーからは「なぜ福島に」との質問が続きました。
「その答えに、感動しました」
「私たちがやらなければならないことが、見えた気がします」
楽鼓のメンバーからその夜のミーティングで出された感想です。

最後に山木屋地区の自治会長さんから、お話を聞きました。
「震災の時のこと」
「震災から今日までのこと」
「これからのこと」
来年の3月に避難解除になり、仮設住宅も終わる。
あの山木屋地区の自宅に戻るか、公営住宅に移り住むかの選択が迫られる。
被災地で現地の方から聞く生の話は、やはり重く、説得力があります。

自治会長さんは言われます。
バラバラになってしまう山木屋地区の仲間のこれからの生活。
「震災で、逃げてくるより、戻る方が難しい」と。

「本当にこれからが大変。試練はこれから」

「若い人の知恵と力が欲しい。心からそう願っている」

自治会の集会所には、震災で、できなくなった畑仕事の寂しさを忘れるために山木屋地区の仲間で作ってきた「つるし雛」が揺れていました。

牡鹿半島鮎川の仮設商店街「のれん街」(2016年8月17日)

8月17日 和太鼓部楽鼓の東北被災地演奏2日目。
台風接近により朝から大雨。
台風が過ぎ去るのを待って、福島駅前の宿舎をバスで出発。
台風を追いかけるように福島県から宮城県石巻牡鹿半島に向かい、昼には牡鹿半島鮎川の仮設商店街「のれん街」に到着。
新鮮な海鮮丼やくじら丼を頂きます。

3年前にも演奏した仮設商店街。
商店街のみなさんが、愛知からあの楽鼓が来くれた、と心待ちにして下さっていました。
しかし、台風は過ぎ去ったものの、外は雨。
やはり演奏は無理か、と思われた瞬間でした。

晴れた!

バスの乗り込んで、次の演奏場所へ移動する準備をしていた楽鼓のメンバーは、急遽演奏の準備に取り掛かりました。
そして、演奏開始!

お客さんは、商店街のみなさん。
楽鼓の演奏に、笑顔がはじけます。

今、演奏している場は、5年前の津波ですべて飲み込まれた場所だったことを思い浮かべながら、 和太鼓部楽鼓のメンバーは、「楽」「おまつり太鼓」の2曲を演奏しました。

宮城県石巻 特別養護老人ホーム「おしか清心苑」(2016年8月17日)

石巻鮎川の「おしかのれん街」での演奏後、和太鼓部のメンバーは特別養護老人ホーム「おしか清心苑」を訪問。
3年前の訪問演奏以来、2度目の演奏になります。
入所者のみなさんから「待っていたよ」と声をかけられ、急いで演奏準備。
ここでも3年前にできなかった「海嶺」の演奏をしました。
全国大会でも演奏している演目だけあって、かなりの大音量。
第1章の「嵐」のシーンの演奏が終わると、観客のおばあちゃんから「おっかねかったぁ」との声。
しかし、入所者のみなさんは、曲の世界に入り込んでいて、演奏に集中しています。

第2章の篠笛の音色に涙を流す方も。そして第3章へ。
最後は大きな拍手を頂きました。

和太鼓部の1年生のメンバーも、とびきりの笑顔で演奏。

「花まつり」の演奏が始まると、会場からも大きな手拍子がおこり、席を立って一緒に舞い始める方もみえました。

アンコールの声までかけて頂き、最後は和太鼓部のメンバーで「楽」を演奏。

その日が誕生日だったとのことで、舞台に一緒に立って頂き、和太鼓部のメンバーと一緒に「ハッピーバースデイ」を合唱。みんなで誕生日を祝いました。

施設の方からは、「3年前に来て頂いた時、また来て欲しい、とお願いしたら、本当に今回、本当に愛知から来てくれました」
「忘れないでいてくれて、本当にありがとう」
だから、もう1回、願いたいと思います
「また、ぜひ来てください」

和太鼓部のメンバーは、その言葉をしっかり受け止めました。
「また、ここへ、来る」と。

牡鹿半島十八成浜(2016年8月17日)

清心苑での演奏を終えた和太鼓部楽鼓のメンバーは、牡鹿半島十八成浜へ移動。
十八成浜は東日本大震災で津波の被害を受けただけでなく、地盤も沈下。台風による高波が土嚢をこえて道路まできていました。

5年前の石巻訪問の時からお世話になっている、十八成浜の阿部邦子さんからお話しを聞ききました。
会場は十八成浜の仮設住宅から高台に移った公営住宅の集会所。
邦子さんは、清心苑での楽鼓の演奏も聞きにきて下さり、演奏の感想からお話しが始まりました。
お話しは、震災の時の話から、これまでの事、そして、これからの事と広がっていきます。
楽鼓のメンバーは、邦子さんの言葉を真剣に受け止めました。

「震災を風化させない、というのは、みなさんのための言葉。被災地の方の言葉ではない」
「震災で、薬を取りに行っては絶対ダメ。4日間でなんとかなる。取りに行った人がみんな亡くなった。
ただ、ワンセットだけ、身に着けていれば、なおさらいい。名前を覚えていなくても、なんとかなる」
「津波って名前がいけない。あれは、コンクリートのかたまり」
「被災者に、がんばれ、とは言わないで。これ以上、何を頑張ればいいの。それは思考停止の言葉。 簡単に、がんばって、と口にしてしまうのは、思考が停止している証拠。もっと想像力をはたらかせて」

最後は、みんなで記念写真。
また、来年。
また、ここへ来る。
来年の全国大会は、宮城大会。

鮎川小学校の和太鼓チーム(2016年8月17日)

8月17日夕方。
鮎川のおしかのれん街での演奏中に声をかけて頂き、交流が実現した、鮎川小学校の和太鼓チームの練習会場を訪問。
3年前に楽鼓と共演したメンバーとも再開することができました。

交流はもちろん和太鼓演奏。楽鼓のメンバーは「海嶺」を演奏しました。

鮎川小学校のメンバーは、地元で演奏している「白濤」を力強く演奏してくれました。
震災後の和太鼓の演奏を通じて、牡鹿半島の文化を子ども達が受け継ぎ、そして発信していく姿に感動しました。

最後に、楽鼓のメンバーが「彩」を演奏。一緒に盛り上がりました。
この日は、1日で3ケ所の演奏で、身体は疲れましたが、心があたたまる時間を共有しました。
深い1日でした。

牡鹿半島小渕浜(2016年8月18日)

東北被災地交流演奏も3日目を迎えました。
この日は、5年間と3年前に、楽鼓が訪問して演奏した牡鹿半島の小渕浜を訪問しました。
しかし、あいにくの雨のため、仮設住宅での演奏はあきらめざる得ませんでした。残念でした。

楽鼓のメンバーは小渕浜訪問でお世話になっていて、3年前は宿泊場所にもなった民宿「めぐろ」を訪問。
ご主人と自治会長さんから、震災当時の様子や、震災から5年間のこと、そしてこれからの課題についてお話しを聞きました。
震災の時の状況がリアルに伝わる迫力のこもったお話しでした。

お話しを伺った後は、みんなで記念写真をとりました。

3年前に楽鼓のメンバーが送った「寄せ書き」が、民宿めぐろに飾ってありました。
来年の全国大会は宮城大会。
来年こそは、ここで楽鼓が演奏できるように、県大会を頑張ろうと決意を新たにしました。

宮城県仙台(2016年8月18日)

牡鹿半島をあとにして、宮城県仙台へ向かいます。
途中、石巻の市内をバスで走る中、震災の爪痕を見ることができました。
津波が到達した高さを知る案内。まだ、片付かない瓦礫の山。

震災から5年経っても、まだ、復興したとは言えない状態にあること。
そして、つながり続けることの大切さを学んだ3日間でした。

仙台に到着。お世話になったバスともお別れ。
そして、お世話にになってバスの運転手さんともお別れです。
運転手さんも、被災者の1人。震災の時には、病人や遺体を運転手みんなで運んだ話を、教えて下さいました。

被災地に、自ら想像力を働かせて、考えることの大切さを知った3日間でした。
「知った者の責任」を感じた3日間でした。

訪問をこころよく受けて頂いた関係機関・関係者の皆さま、ご支援いただきました関係者の皆さま、保護者の皆さまに心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

page top