2005年11月26日<日本福祉大学の先行事例報告> 津田道明

11月26日、京都橘大学で行われたシンポジウム「地域振興と大学教育」において、日本福祉大学現代GPの取組についての「先行事例報告」を行いました。

 

津田:こんにちは。日本福祉大学学事課の津田です。教務事務とともに地域貢献をテーマとする現代GPプログラムの運営事務を担当しています。 私が今日報告させていただくのは、愛知県の知多半島における日本福祉大学の地域貢献活動ですが、現代GPの先行事例としてご紹介いただいていますけれども、いろいろなお話を伺い、京都橘大学の資料を拝見した感じでいいますと、むしろ橘大学のほうが先行事例として、進んだ取り組みをされていると思いますし、こちらがいろいろ学ばなければいけないと感じています。 あらためて今日のプログラムを見ますと私の後、織田先生と学生のみなさんが報告されるので、それがメインと思っています。私の「先行事例報告」は今日のフォーラムの導入部として聞いていただきたいと思います。

 

   山科と知多−地域の歴史を調べる

 

知多地域での現代GPの取り組みの基本的性格、というところから入ろうと思ったんですが、少し頭をほぐす意味でここ山科と知多の関係について触れます。 山科にお生まれになった方、私たちは知多半島にいますけれどもひょっとしたら私たちは遠い親戚に当たるのかな、という話です。 山科の地図、これは今朝、JR山科駅前で老人会連合会のボランティアの方たちが山科のマップを配っておられたものですが、京都橘大学の前のあたりは大宅という地名ですね。バスターミナルも「大宅」です。それからもう少し南の方に小野という地名も出ています。 大宅、小野は古代史上の有力氏族で、文献上まずあげるとすれば古事記、第五代の孝昭天皇の皇子女の系譜に出てまいります。神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊……の孝昭です。天皇には二人の兄弟があり、弟が第六代の天皇になるんですが、兄は天押帯日子命(アメノオシタラシヒコノミコト)と言います。孝昭記では天押帯日子命のあと、春日臣以下十六氏族をあげてその始祖、祖先としています。 日本書紀では同じ孝昭天皇の記述には氏族名をあげないで、「和珥(ワニ)臣等始祖也」としていますので、記紀を併せて考えると、和珥(ワニ)氏の同族として春日臣、大宅、粟田、小野、柿本や知多臣、それから伊勢飯高君、壱師君等十六氏族があり、それらは孝昭天皇の皇子に連なる系譜にあるとしているのです。 この十六氏族の十一番目が「知多臣」で、知多臣の根拠地は知多半島のつけねのあたりと考えられています。もちろんこれら氏族の系譜というものが地縁的血縁的な同族関係によるものなのか、それとも政治的経済的な諸関係を「同族」として擬しているものであるかは、それぞれ具体的に検討してみなければなりませんが、ひとまずここでは十六氏族という、記紀の中でも抜きん出た同族集団のなかに、山科や知多に基盤をおいた有力氏族が含まれていることを言っておきたいと思います。 ワニ氏のなかで、とくに春日、大宅、粟田、小野などには強い地縁的血縁的同族関係があったと見ることができると思われます。それぞれかいつまんで紹介します。 春日氏は今の春日大社からその南の春日野あたりを本拠地としていました。大宅氏はそのさらに南、今の古市町あたりと、ここ山科と言われています。粟田氏の拠点は鴨川の左岸です。ここ大宅から見ると、国道に沿って日ノ岡峠を越えると粟田口、京都七口の一つですね。さらに西に向かうと京阪三条、三条通りです。交通の要衝を押さえている位置にあります。知恩院の北、三条通りの近くに青蓮院という門跡寺院がありますが、その東に粟田神社があります。 小野氏は橘大学の南、小野や伏見の醍醐にかけても勢力を張っていたようですが、粟田氏の拠点の北、鴨川をのぼって高野川に入ったあたり、上高野を拠点としていました。上高野の崇道神社裏からは遣隋使で知られた小野妹子の子小野毛人(えみし)の墓誌が発見されています。高野から山中越えで琵琶湖に出ますと、琵琶湖大橋の少し北のほうに小野郷があり小野妹子の墓があります。またここには小野神社があり、小野神社は小野氏の主神でしたが、後に大春日氏の氏神にもなります。 現在の小野の集落のすぐ北にJR湖西線の和邇(ワニ)駅があり、そこには和邇川が流れています。 和珥氏は欽明朝以降(六世紀半ば)は春日と名のり、さらに七世紀半ばに古代史上最大の内乱であった壬申の乱を制した天武天皇が八色姓制定の後、朝臣の姓を五十二の氏族に与えているのですが、筆頭は大三輪君、二番目に大春日君です。ワニ氏の系譜では大宅、粟田、小野、櫟井、柿本が含まれています。この順位は有力氏族の勢力の大きさを示すと考えられますから、これを見てもワニ氏一族の勢力というものを伺うことができます。 柿本氏はもちろん人麻呂です。万葉集屈指の歌人である柿本人麻呂が生まれております。 人麻呂にせよ妹子にせよ、当時の最もすすんだ技術的知的グループを形成していましたし、また葛城氏と蘇我氏の間にあって、古代史上多数の后妃を出しています。もちろんこの背景には軍事的軍事技術的−たとえば鉄−優位性がありますが、特異な役割を担った集団であったといえます。

 

   山科から知多へ−同族関係を歩く

山科から知多への道をたどっていきます。京都橘大学を出発して大宅、小野を過ぎて南に下っていくと木津川にあたります。木津川を越えると奈良坂。奈良坂の南は春日大社、春日氏の本拠です。さらに南下し、新薬師寺、白毫寺を過ぎると古市−大宅氏の本拠−、その南には和珥氏の本拠地である天理市櫟本に至ります。天理インターの北のあたりの和邇町には和珥氏に関わる式内社があります。さらに四世紀末から五世紀前半と考えられる東大寺山古墳群の存在を考えると、ワニ氏の本拠をこのあたりと想定できます。 そこをさらに南のほうに下っていくと初期、大和政権が誕生したと思われている三輪山の麓に至ります。三輪山の南、桜井から国道166号に沿って東に向かい、東吉野を経、三重県・奈良県境の高見峠を越えると櫛田川の上流部。そこから櫛田川に沿った国道を東に向かうと、飯高。冒頭紹介したワニ氏の同族とされる伊勢飯高君の支配地です。飯高を通ってさらに東へ進むと伊勢湾に至ります。櫛田川の北には雲出川という川が同じく伊勢湾に注いでいますが、櫛田川、雲出川の下流部を押さえていたのはワニ氏の同族の壱師君。現在の一志町あたりです。この河口部の北には古代、伊勢湾最大の港であった「津」があります。 伊勢湾の方から見ると、雲出川をさかのぼれば高見山地の主峰三峰山の麓で木津川の上流部に接していますから、木津川を下って奈良の北部、先ほど申し上げたワニ氏の南北のルートにつながります。また櫛田川にそってさかのぼれば大和政権の中心部につながります。 そうしますと結局ワニ氏は日本海の敦賀から琵琶湖の西岸を通って飛鳥に至る古代の情報・物資の流通の基幹のルートを押さえていたことがわかります。 三重の津から真東に向かえば、日本福祉大がある知多半島南部の地です。海上ほぼ30キロ。琵琶湖の東西で最長20キロです。ワニ氏はその名のようにもともと海洋系氏族と考えられますので、この距離はさしたることはなかったでしょう。東国にはワニ氏の拠点は見当たりませんので、伊勢・知多はワニ氏の東の最前線ということになります。 以上のことをふまえて、ひょっとしたら私たちは祖先を共通にする親戚かも、と申し上げたわけです。 先ほどから井口先生が、「現代」GPがいつの間にか古代地誌の話になってしまったということで、ちょっと心配そうな顔をされておられますけれども、地域連携、地域貢献の取り組みにあたって、課題の一つとして、地域の歴史を掘り起こす、地域の歴史にぜひ関心を寄せてほしいと思って申し上げた次第です。(注1)

 

   知多地域の特徴と知多の「地域再生計画」

さて私たちがたどりついた知多半島は人口約60万人。面積が380平方キロメートル、5市5町で構成されています。 愛知用水が開通して、水の問題が解決されてから農業が盛んになり、県内でも有数の農業地帯です。野菜、果実、それから花卉類も県内では一位です。また南部には伊勢湾を挟んで豊橋沖から鳥羽沖を漁場とする近海漁業が発達しています。 北部から中部の臨海部では電力、鉄鋼、造船、重機、輸送機、化学などの重化学工業地帯が形成されています。 また半島中部には酒、酢、味噌、醤油等の醸造業が伝統産業として盛んです。また常滑焼に代表されるように、窯業、陶磁器産業が活発です。このような活動の結果、製造品出荷額は資料にあるように316,066,508万円(平成14年度工業統計調査)にのぼっています。これは都道府県別の出荷額で言いますと、全国で24,5位にあたります。京都府以西で知多を上回っているのは、京都、大阪、兵庫、岡山、広島、愛媛、福岡の7府県だけです。 また知多半島のJR、名鉄および主要道の沿線部では全域的に名古屋圏、それから最近では豊田圏の住宅地開発がすすんでいます。また知多半島南部の臨海部の観光、海洋資源を活用した観光業も一定の位置を占めています。このように、産業の問題に着目すると、知多半島は多彩で豊かな印象を与えます。しかし生活者の視点から見た場合、生活環境、自然環境の問題、拠点的な地域「開発」における都市内部の人為的な不均衡発展、各地の伝統的な商業地域の衰退など深刻な問題が生起しています。また“ものづくり”の盛行も絶えまない国内外の競合関係で不安定性にさらされています。 そのなかで、中部国際空港開港を契機とした「地域再生計画」が策定されました。 日本福祉大学の現代GPはこの「中部国際空港を核とする知多半島観光再生計画」を基盤とするものですが、その観光再生計画のポイントは3点あります。 

知多半島観光再生計画と現代GP

 

再生計画では1.住民の観光意識の醸成、2.観光資源の整備・創出、3.観光振興の環境づくりの三つの課題になっていますが、わたしたちはこの計画に対応して、1.人づくり、2.地域資源の見直し・地域づくり、3.地域再生の条件づくり、という区分で計画を検討しました。 「観光再生計画」は「観光産業」の再生計画ではありません。もちろん「観光企業」の再生計画でもない。「観光」ということを広く捉える−もともと観光という言葉の意味は、国の光を観る、国のかけがえのない財産、これらを発見するといわれている−ことを考えると、知多地域の再生計画とはまさに住民の協働による地域の見直し、地域の振興計画に結びついてゆく事業であるといえます。 地域を発展させる担い手をこのように位置づけた時、地域連携による地域の再生、振興を大学が目指す時、何よりも重視しなければならないのは地域に住み、生活する人たちとの協働による関係づくりです。 この関係づくりにおいて、現代GPプログラムが最も重視しなければならない課題は、地域再生計画における地域住民の位置づけになぞらえて言えば、学生をこそ計画の主人公に据えなければならないということです。

 

   現代GPの取り組みの主体

おさらいのようでありますけども、「現代GP」とは、社会的要請のあるテーマに基づく学生の教育プログラムだということです。この教育プログラムというところが今回の取り組みのポイントになる点です。 「教育プログラム」の主体は誰か。もちろん教育活動を行う点では、まず何といっても教員が果たす役割が非常に大きい。しかし同時に、いま新しい課題として浮かび上がっているのは、この教育活動の取り組みのなかで、学生がどのように主体者、主人公として登場するかという問題です。 もちろんこれまでも、大学関係者のなかで、大学教育のなかで学生がいかにして主体者として登場するか、学ぶ主体として登場するかということに心を砕いてなかった人は一人もいなかったと思います。良い授業を創りたいという思いや願いは、教育者が本来的に内包しているテーマです。しかしそれは、あくまでも教育活動、知の体系の“受け手”としての主体性を問うものであったのではないでしょうか。これに対して、現代GPでは事業そのもの、学生の取り組みそのものをプログラムの中心に据えようとするものです。 このように大学教育における学生参加、授業づくりに学生が主体的に関わる実験的な取り組みは全国各地ですすんでいますが、現代GPプログラムのなかで、地域貢献をテーマとした取り組みはその先駆的な意義あるプログラムといえます。 資料集に知多半島の地図と日本福祉大学のプログラムを紹介しています。人づくり、地域資源の見直し、それから条件整備に関わるプログラムを並行させてすすめております。 学生の積極的な参加を組織する点では、テーマ・集団づくりは二つの方法を取っています。一つは地域再生計画に関する取り組みの課題を明示して学生に参加を呼びかける手法であり、もう一つは学生からテーマを出してもらう、個人でもグループでもかまわない、学生のなかからテーマを出してほしいという両建てでやっております。いい換えれば地域貢献活動に関するミッション型とボランタリー型です。 ミッション型は関係教員によるゼミを基盤とした活動として行われる場合が基本ですので、これをゼミ型、逆に広く学生参加を募る公募型とも区分できます。 この両者は全く別なものではありません。例えば当初から現代GPの計画として設定して、ゼミの学生が教員とともに活動を始めてから、派生してきた新たな問題については公募型で事業を進める場合もあります。

 

   事例紹介−産業観光プロジェクトと廃校プロジェクト

産業観光プロジェクトについて、資料の図1では@企業の産業観光実態調査、A中学校調査、B養護学校の校外活動調査の3プロジェクトを紹介しています。 観光といいますと、従来の名所旧跡、景勝地や温泉地観光以外に、近代の産業遺跡やあるいは“現役”の産業施設を観光の対象として、学習型あるいは参加型の“産業観光”が近年注目を集めていますが、@は“ものづくり”の知多を基盤とした産業観光を研究しよう、具体的な提案をまとめようとするものです。また中学校や養護学校での校外学習がどのように取り組まれているかを研究し、産業観光とのリンクを探ろうという研究がすすめられています。 そのなかでは、例えば日本福祉大学のある美浜町に「ビーチランド」という水族館があるんですけれども、この水族館が海に関する地域の教育資源だというふうに意識されていない。自分たちでヒアリングに行ってわかったのですけれども、水族館を博物館、学校外にある教育施設として意識はしているけれども、地域の海洋性の教育資源というふうには意識されていない。ですから校外学習の前後に関連する教科の授業と関連づけることや海洋関係、水産業関係団体や個人の協力を組織したりするということがやられていない。何月何日に今日は校外学習です、という取り組みに終わっている。もしこれを地域固有の教育資源、海洋性の教育資源と位置づけるならば、生物学習のみならず、漁業関係者を招いたり、産業学習あるいは環境学習、地理学習などさまざまな展開が可能でしょう。ビーチランドが“地域”と切り離されているため、学習の展開が閉ざされてしまうという印象を受けるわけです。 養護学校調査においては、障害を持つ子どもたちに、海のおもしろさ、楽しさ、こういうものをどう体験してもらうか、それを実現するために克服すべき問題はどこにあるか、という問題意識から、愛知県、岐阜県の養護学校で校外学習がどんな取り組みをされているかということを調べています。 これらのグループは教職課程履修者が中心的な役割を果たしていますが、プロジェクトに応募してきた学生にプロジェクトへの参加理由を尋ねたところ、私たちは教師になりたいんだということ、未来の教師としていろいろ教材をどんなふうに活用したらいいのか、考えていると答えています。地域貢献のプロジェクトは学生自身の外にある問題ではなく、学生自身の内的な問題、自己形成、自己実現の課題であるわけです。 もう一つ、愛知県の東北、東栄町の小学校廃校問題に取り組んでいるグループがあります。その町では現在7つの小学校がここ3、4年のうちに全部統廃合されてしまうという計画がすすんでいます。小学校の統廃合は全国的に深刻な問題で、このところ毎年、全国で200校ぐらい小学校がなくなっているんじゃないでしょうか。 

【図1 知多半島各地域宅条件、住環境での活動】  

 *知多地域の行政区分 5市5町
   (半田市、常滑市、東海市、大府市、知多市、阿久比町、東浦町、武豊町、美浜町、南知多町)

 *人口591,440人(H16;「知多半島の統計」)  *工業品出荷額 316,066,508万円(H14 工業統計調査) 

図1 知多半島各地域宅条件、住環境での活動

  このように少子化の現れ方は特に中山間地帯に深刻で、社会減・自然減により、中山間地帯から子どもの姿が急速に失われていっています。中山間地帯の小学校訪問をしてみますと2学年が合同で授業をやっていたりする。1学級に子どもが一人、二人といいますと、学校が終わったら野山で遊ぶというわけにいかないのです。学校にいるときは多少何人か友達がいる。だけども集落に戻っていくと周りに友達がいないんです。近所に遊び仲間がいないわけだから、田舎に行くほど子どもは外で遊ばないという状況になっているんです。 それをどうするか。一方で小学校を利用した何か新しい取り組みはできないか、海に囲まれた知多の小学校の子どもたちが山間部の小学校で山の生活を体験する、逆に中山間地帯の子どもたちに海の体験をしてもらう、そういった取り組みを考えたらどうなるか。後者の問題では、知多半島の先端部の漁協の人たちが、海の環境保全、自然保護に取り組みながら、内陸県の岐阜の学校を回って遠足に利用してもらうように働きかけたりしてきています。 また学校には地域とともに歩んできた歴史的な財産−地域のかけがえのない教育実践の記録−が残っています。ある小学校の教材準備室を下見した時には明治43年の卒業生の卒業記念−習字が表装されて残っていた。現在94,5歳になられる方たちの学習の記録が残っています。中山間地帯の小学校は全部公費で建設されて出来上がったのではない。地域住民がお金も資材も提供し、その後の運営に住民が関わってきたのです。こうした生活資料、教育資料を伝える施設づくりやまた馴染み深い高齢者のコミュニティーセンターにしていく。そういう居場所づくりをどうすれば良いかをプロジェクトの学生たちが考えてるわけです。 また経済学部の学生を中心にして小学校を利用した産業−仕事づくりができないか、ということも研究しています。

 

   学生が地域の課題に取り組む意義

京都橘大学には非常に優れた先行研究があります。文学部が設置されてから連綿と続けてこられた取り組みが、新しい学部、文化政策学部にも濃縮されて開花したという感じがします。大学における地域連携の取り組みという教育実践自体を卒業論文のテーマにして、追ってみてもおもしろい、と思うぐらいに意味ある取り組みだと思います。 私たちの大学も現代GPは突然降って湧いて生まれたわけではなくて、資料にありますように社会福祉学部や経済学部、情報社会学部での実践の積み重ねの上にあるものです。 特に社会福祉学部は実践的な性格の強い学部ですから、現場と非常に結びつきが強かった。こういうものを基盤にして作ってきております。 学生の存在をコアとして研究・教育・実践と大学・地域の連関をまとめたのが次図です。 

現代GPを推進する力 -合成力の構築-

  横軸には地域と大学の関係、縦軸には理論と実践の関係をどういうふうに考えたらいいかというふうに書いてみました。コアの学生は点線でアメーバのように書いてありますけれども、これは学生は非常に可変的な存在であることを意味しています。大学における理論研究を中心にやる場合もあるし、地域貢献のほうに傾斜していく場合もあります。私の構想は、個人やグループがいくつも層を成して重なってるという“カタチ”です。 清水焼の将来に関して、デザインの部分を考えるグループもあれば、あるいは消費と流通の問題を考えるグループもいる。情報発信のあり方を考えるグループもある。それらを貫く歴史分析は共同で行う。そのような多様な積み重ね、層をなして構成するというような取り組みをすすめたいと思います。 地域に生起している問題は、多面的な複合体です。平面ではなく立体的ですし、変形しています。それら多面的な問題解決を推進するには、到底教員個人が負いきれるものではありません。しかもこれは時間をかけて分析し、結果をまとめることに意味があるわけではない。誤解を恐れずに言うなら、“正解”を提示するよりも、“正解”を現場的な実践のなかで形成してゆくことが求められていると思います。実践の 協働こそがその“正解”づくりの過程なのです。もちろんそのためには教員の専門性が不可欠ですし、また学生の活動全体を見通すディレクターのような役割が求められます。そのためには学生個人個人の能力や可能性を育ててゆく高い教育力がいっそう求められます。 そして地域は“知域”と資料に書きました。地域は人々の生活と生産が行われ、積み重ねられてきた時間的集積と空間的な広がりを持ったものです。そこには知的財産、人間の結びつきが蓄えられています。この知的財産とネットワークを活用して、現実に生起している問題を考え、解決しようとする試みは、“一斉・多人数教育と暗記学習”を中心とするわが国(しかもそれは東アジアに共通します)の教育システム(注2)を変える可能性を持っています。資料に書きましたが、一斉・多人数・競争による個人主義教育ではなく、地域の総合問題を学生の共同、地域との協働によって学び、具体的な解決をめざす試み−地域総合協働学習−は青年期に獲得しなければならない社会的なコミュニケーション能力の形成の活きた教材そのものです。それは学生の自己形成の、かなり重要な部分を占めるものです。 時間が超過していますので、最後に一言だけ申し上げると、こういう取り組みの中心にあるのはやっぱり学生だということです。学生がしっかり学んで、そこが核にならなければ現代GPプログラム−とくに地域連携プログラムは決して実りある成果をもたらさないでしょう。 図のなかに、studentと書いてあります。studentというのはもちろんstudyということと、dent、人という意味が重なった言葉です。米語の影響で中学生以上の「生徒」(今では小学生も含めるようですが)と習いましたが、英語ではstudentはもともと大学生を意味していたようです。児童、生徒、学生という日本語は英語と照応しているようですね。Studyの原義は努力するっていう意味です。だからstudentっていうのは努力する人ですね。さらにstudyは研究、調査、学問、それから書斎や研究室の意味があります。Learn=学ぶ、習得することとは違うものです。そこのところをぜひ受け止めていただきたいと思っております。 時間が延びてしまいまして、資料の5、トピック学習(注3)については、あとで時間がありましたらご説明させていただきます。時間を超過して申し訳ありません。ご清聴ありがとうございました。(拍手)   (注1)ワニ氏に関しては岸俊男「ワニ氏に関する基礎的考察」(『日本古代政治史研究』塙書房 1965年)によった。またワニ氏と飛鳥の政治史については和田萃「ワニ氏を追って」(『大系 日本の歴史 2 古墳の時代』小学館 1991年)の所説を、知多地域におけるワニ氏に関しては福岡猛志『知多の歴史』(松籟社 1991年)を参考にした。 (注2)佐藤学『教育改革をデザインする』岩波書店 1999年「近現代を通じ、学校教育の主たる方法は一斉授業と多人数教育が支配的な仕組みである。またその学習は「競争によって動機づけられた個人主義的な学習」(佐藤 同書)である。これに対し、現代GPの取組は学生の“地域総合協働学習”である。この学びの方法の獲得は、学生の将来にわたって最も重要な能力の一つであるコミュニケーション能力の形成そのものである。それはキャリア形成の根幹をなす。 (注3)稲垣達彦『教室からの教育改革』(評論社2000)「トピック学習は、プロジェクトとも、シマテック・アプローチ(thematic approach)ともよばれている学習形態であるが、特定の課題に即して取り組む学習であり、課題に即してカリキュラムを横断して学習がすすめられることからクロスカリキュラー・アプローチともよばれる、合科的、総合的学習である。」(稲垣 同書)

 

   補遺 <パネルディスカッションでの発言>

(山科三条通商店街の振興にむけて意見を求められて、続いて学生の単位認定についての質問に対して)   津田:最初の「山科の商店街をどうしたらいいのか?」という質問です。始めて山科駅に降り立ったものですからとても責任を持ったお答えはできないのですが、私の率直な感想を申します。さきほど龍野会長さんが生鮮食料品店がない、とおっしゃいました。学生の方もおわかりだと思いますが、商店街にとって生鮮食料品というのは決定的に大事なのです。野菜、肉、魚、この生鮮3品を扱う商店がなくなったのは、山科の中心市街地に住む人がいなくなっている、再開発事業その他で人が離れているからでしょう。また生鮮3品を扱う店がなくなれば、商店街の集客力は下がります。とすると、既存の商店再配置や再開発だけではうまくいかない、中心市街地の住宅整備など、暮らしやすいまちにしていくことも必要です。 (補足:生鮮食料品対策では、短期的には京都市内の他の地域の商店街と連携した、地域ごとに特色ある京野菜の流通ネットワークが出来ないでしょうか。) 「どんな街にしたいか」というご質問ですが、非常に抽象的になりますが、この会場で、住民(行政)、学生、研究者が相互に自由にやり取りしているように、交流が活発にできるまちが求められている。前会長さんは大学に始めて来られたということですが、もっと頻繁に織田先生の研究室などを訪ねていただきたい。このようなイベントだけでなく、まちの人と大学の教員、学生がキャンパスのあちこちでやり取りできる環境、逆の場合もあります。住民も学生も行政もいろんな形でお互いに肩肘張らずに学び合う、交流できる街を目指すべきではないかと私は思います。  「授業形態・単位、継続性」の問題ですが、日本福祉大学の場合ですと、「国内フィールドワークT〜[」(各2単位)ということで4年間16単位まで認めています。半年2単位を1クールにしています。授業形態は多様ですが、何らかの学校外での実習を含んでいます。継続の問題ですが、私の資料のYのA「学びの方法の発見」というのがあります。 地域の総合共同学習という新しい学びを創造しようと提案しています。日本や東アジアの特異な個人的な学習でなく集団の学習、共同の学習です。歴史、経済などいろんな方向からアプローチをしていく共同の学習をどうやってつくるのか?  特に上級生の皆さんにお願いがあります。自分たちの成果を後輩に伝えることが非常に大事です。学生の成長を最も評価できるポイントはそこです。知識の量のすごさをいくら見せられても、それはよくやったというだけのことなのです。そういう内容を自分の後輩に伝える機会をつくる。つまり、学習者が教育者に変わるところで初めて学生は成長した、変わったと評価できます。知識の量は量として、質的な変化を重視したいんです。 上級生が下級生を育てる、下級生はそれらを受け継いでまた引き継いでゆく。そういうことを学内で再生産していく。この取り組みができるかどうかが、大きなポイントだと思います。自分たちの世代から次の世代に伝えていく。後輩はそこからさらに前進をしていく。こういうことをきちんと蓄積して最後は自分たちで表現をしていく。これが大事なことだと思います。抽象的な言い方で申し訳ありませんが。 (補足:以上の点では、学生が達成した成果を発表する、記録を残しておくことは事業の継続性にとって重視すべきものです。それは学生による相互教育活動の活きた教材となる。)   (学生が地域で活動すること意義について)   津田:私の本務は大学の職員なので専門的に商店街の研究をしているわけではありません。 しかしいろんな出張の度に時間をやり繰りして商店街を見るようにしています。 九月、出張で富山に行きまして、富山には中央通りという商店街がありますが、骨董屋、画廊、輸入雑貨の店などいくつか回りました。 (補足:商店街の入り口のあたりに商店街組合による無料休憩所が作られていること、店内の掲示板に手づくりのお知らせが貼ってあったりお値打ちコーヒーが飲めたりできます。また商店街の通りの窓側のディススプレーの成熟度=個性ある街づくり=の高さなどに強い印象を受けました。) フィールドワークですから、現場を歩かないと話にならないと思います。小学校でも総合的学習の時間にいろいろな取り組みをやっています。中にはすごい実践をやっている小学校があります。商店街の調査をテーマに、何ヶ月にもわたる準備をして系統的にやっている学校があります。これは大学の実践でも真似できないものがある。これは主役が小学生なので余計に周到な準備をしないといけないということもあるでしょう。さきほど龍野会長が言われたように「小学生の方が鋭い質問をする」と言われてしまいそうです。 しかし、それはやむを得ないところもあるのです。学生たちは小学生時代からコンクリートやアスファルトの上で成長した世代です。私は大阪生まれですが、通学には運動靴を履いたけど、家ではもっぱら下駄を履いて走り回っていました。家のすぐ横に鍛冶屋がいたり洋服屋さんがあったりした世代です。現在はそうではなく、商店街といえばシャッターが閉まった、寂れた町並みという印象が強い。世代によって育った社会環境が違いますが、その違いがあるからこそ、たくさんフィールドを見て回ってほしいのです。歴史を調べてほしいのです。史学科の学生には商店主の伝記を書いてほしい位です。 一昨年、京都市中京区の西新道錦商店街を訪ねたことがあります。その時のエピソードを紹介します。訪問の前、お昼時でしたが、好物のニシンの干物を買おうと魚屋さんに行ったのですが、私の前でおばあさんが青物を注文したところ、すぐさま店の大将が「3枚におろしとこか?」って聞いたんです。たぶんサンマだったと思いますが、たった1匹です。店には他にもお客さんがいたんですが、おばあさんがうなづくと、手際よく捌いた。おばあさんはさらにヤリイカを1杯注文したんですが、そしたら大将は今度、「皮、剥いとこか?」って聞いたんです。老人にとってイカの皮の嚥下は難しいものです。大将はそれをよく知っていて、常連らしきおばあさんを気遣っているのです。 商店街を見て歩くと言っても、通り過ぎるだけでは見たことにならないのです。1軒1軒注意深く見ないと意味がない。そしてある程度場数を踏まないことにはアンテナの感度は良くならない。身に付かない。その場数を踏むということは他のフィールドワークにとっても役立つものです。 こんなにいい環境が揃っています。ここには商店会の元の会長さんや現の会長さんがいらして、学生や教員を交えていろいろと議論ができるわけです。このような場があることは最高の環境です。これをもっと日常化した山科の街にしてほしいと思った次第です。

 

   
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