私が小学生の頃の出来事だ。前日の降雪で道はぬかるみ、路肩には雪が積まれている。そんな日の夕方、母と二人で車を走らせていると一人のお婆さんが雪道を恐々と歩いていた。私達が行ったスーパーのレジ袋を提げているので買い物の帰りだろう。母は徐行してお婆さんの前に出ると、車を止めて声をかけた。 「秋山です!乗ってって下さい」 スライドドアを開けると、お婆さんは恐縮しながら乗り込んできた。「どっから行けばよかったでしたっけ」母が元気に聞く。 お婆さんの誘導で家まで送ることができたのだが、あとで母に聞くと、全く面識のない人だったらしい。私は知り合いに話すような母の口調を笑ったのだが、今思えば、母の親しみ易い話し言葉は、車に乗りやすいよう、気兼ねしないよう、配慮してのことであったのだろう。 私達家族が田園の広がる長閑な街に越してきたのは私が幼稚園の頃だ。近所の人達は皆、下の名前で呼び合うような昔からの集落だった。お婆さんを送り届け、家に帰る道すがら「私は知らなくても周りの人は私達のことを知っているかもしれないよ」と笑顔で話す母は、ある意味、封建的ともいえる土地で新たなコミュニティーを構築することを、まるで楽しんでいるかのようだった。母はきっと、その持ち前の明るさと優しさで人に接することで、少しずつ地域に溶け込んでいったのだろう。父も様々な行事に積極的に参加し、小学校の育成会では会長まで務めた。そうやって父も母も新しい土地に馴染もうと努力してきたのだと思う。 両親のそんな姿を見て育った私は、地域貢献に関心を持つようになり、将来は故郷の活性化に役立つ人間になりたいと考えるようになった。そして母のように、人の為に出来ることを常に考えて、困っている人に寄り添い、共に歩んで行きたいと思っている。最近「愛の対極にあるのは無関心」という言葉を聞いたが、その時不意に思い出したのが、あの雪の日の母の行動であった。
作者とお母さんが生き生きと描写されているステキな作品です。日常の小さなエピソードをしっかり切り取ってエッセイにまとめた、第1分野にふさわしい作品だと言えるでしょう。 田園の広がる長閑な街に越してきて、新鮮な環境で生活を始めた作者の気持ちがよく描かれています。「私は知らなくても周りの人は私達のことを知っているかもしれないよ」の一文で、その街で暮らす人たちとの関係が伝わってきて、そんな温かい街で作者が明るく、優しく生きていこうという気持ちが文章によく表れています。